第十九話 逃げ道から遠ざかったような気がした
なかったこと。と、言った瞬間、自分の言葉で胸が冷えた。
過去をなかったことにされたくないと苦しんでいたのに、今度は自分が、今の時間をなかったことにしようとしている。
「なかったことにはしない」
レオナルトは、ゆっくり口を開いた。
「殿下……?」
「厨房へ行ったことも、菜園で泥だらけになったことも、木剣を持ったことも、市場で林檎を買ったことも、果実酒の札に名前を書いたことも。俺は、なかったことにするつもりはない」
「ですが、それらは王太子妃にふさわしくない行いです」
「誰が決めた」
「皆が、そう思います」
「皆とは誰だ」
言葉が返せず、喉が詰まる。
父。母。家庭教師。社交界。候補令嬢たち。王宮の人々。
いくつもの顔が浮かぶ。けれど、それらは今ここにはいない。
「お前が嫌なら、距離を置く。俺といることが苦しいなら、そう言え。記憶が戻らないまま婚約者として扱われることが耐えられないなら、その苦しさを無視するつもりはない」
胸が揺れた。
「だが、ふさわしくないからという理由で、お前を手放すつもりはない」
手放す。その言葉に、指先が震えた。
「私は、殿下と離れたいと言っているのではありません」
言ってしまってから、しまった……と思った。
それは、あまりにも本音に近い。
レオナルトの灰色の瞳が、静かに私を映す。
「そうか。では、俺も言う。俺は、お前と離れたくない」
彼はそれ以上、追及しなかった。その優しさが、また苦しい。
心臓が、強く鳴った。
まっすぐな言葉。甘い飾りも、逃げ道もない。
「だから、婚約は破棄しない」
「何をしても、ですか」
「何をしても、という言い方は危ういな」
「では、どこまでなら……?」
「試すな。俺から離れる理由を、探すな」
喉の奥が熱くなる。
探している。確かに、探していた。
令嬢らしくないことをすれば、王太子妃にふさわしくないと判断されるかもしれない。
そうすれば、この嘘の婚約から降りられるかもしれない。そう考えていた。
でも本当は、降りたいわけではない。離れたいわけではない。
ただ、怖いのだ。好きになってしまうことが。
嘘の上で差し出された優しさに、心が傾いていくことが。
「フィオナ。俺は、お前が何を知らないのかを知りたい。何を見たいのかを知りたい。何を怖がり、何を楽しいと言うのかを知りたい」
レオナルトの声は静かだった。
「王太子妃にふさわしい形に押し込めたいわけではない」
その言葉で、胸の奥が崩れそうになった。
以前の私は、押し込められていた。
日曜日の候補として。最有力候補として。公爵令嬢として。
けれど今のレオナルトは、そこから出てくる私を見ようとしている。
どうして、今なのだろう。
もっと前から、こうしていてくれたら、何か変わっていたのではないだろうか……
そんな思いが、どうしても消えない。
「ですが、他の候補令嬢の方々は」
フィオナは、どうにか声を出した。
「皆様とのご予定が止まっているとうかがいました。私だけが、毎日殿下にお会いしています。このままでは、皆様に」
「恨まれるか」
フィオナは答えられなかった。
恨まれる。その言葉は強い。けれど、否定もできない。
「その責は俺にある」
「ですが、矢面に立つのは私です」
言った瞬間、レオナルトの表情がわずかに強張り、自分の言葉で胸が冷えるのを感じた。
そうだ。今までだってそうだった。
レオナルトが遠ざけていた理由をまだ知らない。
けれど、結果として傷ついたのは私だけだった。
今回も同じかもしれない。
レオナルトが守ろうとしても、実際に刺されるのは私かもしれない。
「二度と、そうさせない」
レオナルトの声には、強い決意があった。
けれど、どうしてもすぐには頷けない。頷けるわけがない。
「殿下がそう仰っても、人の心までは止められません」
部屋の中が静かになる。
レオナルトは何かを言いかけ、けれど言葉を飲み込んだ。
その沈黙で、彼にもわかっているのだと知る。
人の心までは止められない。羨望も、嫉妬も、怒りも、侮りも。
それは私自身も持っていることだから、よくわかる。
「候補令嬢たちとの面会を、少しずつ許可する」
やがて、レオナルトが言った。
「ただし、俺か信頼できる者の同席を条件にする。お前が望まないなら通さない」
「それでは、かえって」
「わかっている。だが、完全に扉を閉ざしたままでは、余計に歪む」
歪む。その言葉が、胸にも重く落ちた。
彼は、窓の外へ視線を向けた。
候補制度は、最初から歪んでいたのかもしれない。
七人の令嬢に曜日を与え、優劣をつけ、王太子の隣に立つ夢を競わせる。
最有力と呼ばれた私は、その歪みの中心にいた。
記憶を失ったふりをしたことで、ただ隠れていたものが表に出ただけなのかもしれない。
「殿下。私は、候補令嬢の皆様に会うのが少し怖いです。けれど、逃げ続ける方が、もっと怖いです」
「無理はするな」
「はい。でも、何も知らないふりをしたまま守られるだけでは、きっとまた同じことになります」
記憶のないふり、という意味ではない。
候補令嬢たちの思惑を知らず、ただ守られるだけでいることが怖いのだ。
レオナルトは、ゆっくり頷いた。
「なら、少しずつだ」
その言葉で、話は終わった。
婚約破棄にはならなかった。
むしろ、私はまた一歩、逃げ道から遠ざかったような気がした。
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