第十八話 自分の手で選んだこと
市場から戻った翌日、窓辺の椅子に座ったまま、右手を膝の上で握っていた。
昨夜は、なかなか眠れなかった。
木剣の重さ。市場の喧騒。傷のある林檎の値段。果実酒の瓶に書いた自分の名前。
ひとつずつ思い返すたびに、胸の奥が落ち着かなくなる。
どれも、王太子妃候補としての私なら選ばなかったこと。
厨房でスープを焦がしかけた。菜園で泥だらけになった。
剣術場で木剣を持った。市場で果物の値段も知らずに立ち尽くした。
果実酒屋では、店主に旦那さんなどと呼ばれた。
令嬢らしくない。王太子妃候補として、ふさわしくない。
そう言われても仕方のないことばかりしている。
それなのに、レオナルトは離れなかった。
むしろ、今日のお前を見られてよかった、と言った。
その言葉が、嬉しかった。嬉しいからこそ、苦しい。
「フィオナ様、お茶をお持ちいたしました」
ミラベルが小卓に茶器を置く。
茶器の横には、小さな皿があった。薄く焼いた菓子が二枚。
以前、レオナルトが持ってきたものと同じ、端が少し香ばしい菓子だ。
「殿下からでございます。先日のものを、フィオナ様がお嫌いではなさそうだったから、と」
ミラベルの声は柔らかく、胸がまたきゅっと狭くなる。
「……ありがとうございます」
礼を言ったが、すぐには手を伸ばせなかった。
嫌いではない。あの日、そう答えた。記憶のない令嬢として、曖昧に。
けれど彼は、それを拾っている。
好きだと言ったわけでもない小さな好みを、忘れずにいる。
以前のレオナルトなら、きっと気づかなかった。
今のレオナルトは、気づく。
なら、私はどうすればよいのだろう。
「ミラベル」
「はい」
「殿下は、本日もこちらへいらっしゃるのですか」
「はい。午前のご公務が終わり次第、お越しになるとうかがっております」
毎日。もう、その言葉に驚かなくなっている自分がいる。
「他の婚約者候補の方がいたと聞きましたが、彼女たちとはもうお会いになっていないのですか」
尋ねると、ミラベルの表情がわずかに曇った。
「皆様とは、現在お会いになられてないようです」
「会って、ない?」
「はい」
月曜日も、火曜日も、水曜日も、木曜日も、金曜日も、土曜日も。
誰とも会ってない……?
その代わりに、レオナルトは毎日私のもとへ来ている。
胸の奥に、冷たいものが落ちた。
「皆様は、私のことをご存じなのですか?」
「もちろんです。お見舞いのお申し出は届いております。ですが、殿下より、フィオナ様のご療養を優先するようにと」
「どなたから」
ミラベルは少し迷ったあと、小卓の端に置いていた銀盆へ視線を向けた。
そこには数通の封書と、小さな贈り物が並んでいた。
「月曜日のアンネ様からは、白い花を。火曜日のリディア様からはお菓子を。水曜日のセシリア様からは、お見舞いのお手紙を二度いただいております」
「二度」
「はい。フィオナ様のご記憶が戻られていないなら、同じ候補令嬢としてお力になりたい、と」
丁寧な言葉。
けれど、丁寧な言葉ほど、刃を隠しやすいことを私は知っている。
彼女たちが私をどう思っているかなんて、私が一番よく知っている。
セシリア。
水曜日の候補令嬢。
候補制度そのものを、もっとも美しく守っている令嬢。
記憶のないふりをしている今の私は、彼女のことを覚えていないことになっている。
けれど実際には、何度も顔を合わせている。
社交の場で交わした微笑みも、候補令嬢同士の茶会での言葉も、階段でのことも、すべて覚えていた。
「お返事は」
「殿下が、今は不要と」
レオナルトが止めている。守られているのだろう。
けれど、それは同時に、他の候補令嬢たちを扉の外へ押し出すことでもある。
薄く焼いた菓子を見つめた。
甘いはずのものが、急に喉を通らなくなる。
レオナルトが来たのは、昼前だった。
今日は書類を持っていなかった。
濃紺の上着に、銀の留め具。王太子としての姿はいつも通り整っている。
けれど、私の前に立つときの視線は、以前よりずっと近い。
「顔色が悪い」
開口一番、彼はそう言った。
「昨夜、あまり眠れませんでした」
「市場で歩かせすぎたか」
「違います」
膝の上の手を握った。
今日こそ、言わなければならない。
「殿下に、お願いがございます」
「何だ」
「私との婚約を、もう一度お考え直しいただけませんか」
部屋の空気が止まり、ミラベルが小さく息を呑み、侍従が視線を伏せる。
レオナルトだけが、まっすぐに私を見ていた。
「なぜ」
「私は、王太子妃にふさわしくありません」
声は静かだった。静かすぎて、かえって怖い。
用意していた言葉を一つずつ並べる。
「記憶が戻っておりません。王太子妃教育をどこまで覚えているのかも曖昧です。厨房ではスープを焦がしかけました。菜園では転び、服を泥だらけにしました。剣術場へ行き、市場を歩き、果実酒の瓶に名前まで書きました」
言えば言うほど、胸が痛む。
それらは全部、私がしたかったことだった。
自分の手で選んだことだった。
だからこそ、それを婚約破棄の理由として差し出すことが苦しい。
「私は、殿下の婚約者としては不適格です。今ならまだ、なかったことにできるのではありませんか」
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