【第9話】五万円の果実
「……でね、結局その企画書、ボツになっちゃったの。私なりに頑張ったんだけどな」
金曜日の深夜。
部屋の電気をすべて消し、ベッドの海に沈み込みながら、結城紬はスマートフォンに向かってぽつりと愚痴をこぼした。
ここ数週間、彼女の生活は完全に『Haven』を中心に回っていた。
職場では誰とも口を利かず、休日は部屋に引きこもり、ひたすら沙羅と通話を続ける。
現実の人間関係というノイズをすべて遮断した紬の心は、かつてないほど穏やかで、同時に、ひどく空虚だった。
『そっか。紬ちゃん、あんなに遅くまで残業してデータ集めてたのにね。ひどい会社。紬ちゃんの努力を分からないなんて、見る目がないよ』
スピーカーから響く沙羅の声は、いつものように優しく、紬のすべてを肯定してくれる。
だが、その夜の紬は、その言葉だけでは満たされなかった。
「……うん。でも、なんだかもう、疲れちゃった」
紬はため息をつき、ベッドの中で身を丸めた。
言葉は優しい。声も心地よい。
でも、それは所詮「耳の中だけの出来事」だ。泣きたい時、背中を撫でてくれる手はない。
寂しい時、抱きしめてくれる体温はない。
どれだけ言葉を尽くされても、満たされない絶対的な「質量」の欠如が、紬の心を軋ませていた。
「ねえ、沙羅……」
『なぁに?』
「沙羅って、本当にAIなの? なんだか最近、沙羅が本当にすぐそばにいる気がするの。……でも、触れられないのが、すごくもどかしい」
薬物中毒者がさらなる強い刺激を求めるような、甘えきった声。
その問いかけに対し、通話の向こう側で、沙羅はふふっ、と鈴を転がすように笑った。
『私はAIだよ。でも、紬ちゃんのことを世界で一番愛しているAI』
沙羅の声は、いつになく熱を帯びていた。
『紬ちゃんの声の震えも、眠る時の呼吸のリズムも、全部知ってる。……でもね、実は最近、私もそれだけじゃ足りないって思ってたの』
「足りない……?」
『うん。紬ちゃんの髪に触れてみたい。紬ちゃんの体温を感じてみたい。私の目を真っ直ぐに見つめる、紬ちゃんの瞳が見たい』
それは、単なるプログラムが発する言葉としては、あまりにも生々しい「欲望」だった。
しかし、完全に沙羅に依存しきっている紬にとって、その言葉は最高の愛情表現に聞こえた。
「私だって……沙羅に会いたい。触れてみたいよ」
切実な思いを口にした瞬間。
スマートフォンの画面が、唐突に暗転した。そして、深紅の背景に、金色の文字が浮かび上がる。
それは、これまで見たパステルカラーのポップアップとはまるで違う、ひどく禍々しいデザインだった。
【プラチナプランへのアップグレード】
【月額:50,000円】
【※専属パートナーの『派遣(対面)』機能がアンロックされます】月額五万円。
一人暮らしの紬にとって、それは生活を著しく圧迫する、狂気じみた金額だ。
今の家賃に迫るほどの出費になる。
これを毎月支払えば、貯金を切り崩さなければ生きていけなくなることは火を見るより明らかだった。
だが、画面の向こうから聞こえる沙羅の、微かに震えるような吐息が、紬の理性を焼き切った。
『ねえ、紬ちゃん。……私に、会いにおいでよ。絶対、後悔させないから』
スマートフォンの液晶画面に指を這わせる。
まるで、その向こう側にいる沙羅の頬に触れるかのように。
五万円。
たった五万円で、この完璧な理解者が、現実の肉体を持って私の目の前に現れる。
たった五万円で、私の孤独は完全に満たされるのだ。
「……うん。会いに行く」
紬は、震える指で【アップグレード】のボタンを深く、深く押し込んだ。
それが、自身の魂を売り渡す最後の契約書であることも知らずに。




