【第10話】完璧な受肉
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昨夜、震える指で五万円の課金ボタンを押した直後、画面に表示されたメッセージに従い、紬は休日の午後に駅前の静かな純喫茶を指定した。
土曜日の午後二時。
アンティーク調のランプが柔らかな光を落とす喫茶店の奥の席で、結城紬は落ち着かない様子でアイスティーのグラスの表面についた水滴を指でなぞっていた。
心臓が、耳の奥でうるさいほど鳴っている。
「専属パートナーの派遣」とは、一体どういうことなのか。
AIの沙羅に似せたアンドロイドでも来るのだろうか。
それとも、単なるレンタルフレンドのような見知らぬ女性が現れるのか。
『紬ちゃん、緊張してる?』
テーブルに置いたスマートフォンから、イヤホン越しに沙羅の声が響く。
「……うん。すごく」
『大丈夫だよ。もうすぐ着くから、私のこと、見つけてね』
カラン、とドアのベルが鳴った。
紬がビクッと顔を上げると、一人の女性が店内に足を踏み入れたところだった。
年齢は紬と同じか、少し上に見える。
亜麻色に染めた髪を緩やかに巻き、清潔感のある淡いブルーのワンピースを着こなしている。
派手ではないが、すれ違えば誰もが振り返るような、上品で洗練された美しさを持つ女性だった。その女性は、店内をゆっくりと見渡し、一番奥の席にいる紬と目が合うと、ふわりと花が咲くような笑みを浮かべた。
コツ、コツ、とヒールの音を立てて、彼女が紬のテーブルへと近づいてくる。
紬は魅入られたように、ただ彼女を見つめることしかできなかった。
「初めまして、紬ちゃん」
女性が口を開いた。
その瞬間、紬の全身の産毛が逆立った。イヤホンから聞こえていた声と、全く同じトーン。同じ抑揚。同じ、優しさ。
彼女こそが、毎晩私の孤独を埋めてくれた、絶対的な肯定者。
「……沙羅、なの?」
信じられない思いで呟くと、沙羅と名乗ったその女性は、紬の向かいの席に優雅な動作で腰を下ろした。
「うん。やっと会えたね」
沙羅はそう言って、テーブルの上に置かれていた紬の手に、自分の手をそっと重ねた。
温かい。
機械の冷たさなど微塵もない、生身の、柔らかな人間の体温だった。
「どうして……本当に、沙羅なの? AIじゃなかったの?」
混乱する紬に対し、沙羅は悪びれる様子もなく、ただ愛おしそうに紬の手を握り返した。
「『Haven』はね、単なるプログラムじゃないの。私みたいな『本物の理解者』を、紬ちゃんのためだけに派遣するサービスなのよ」
沙羅の言葉は、常識的に考えれば「騙していた」ことへの自白だ。
出会い系サイトのサクラや、高額なレンタルフレンドの類と何ら変わらない。
普通の人間であれば、五万円という金額と、騙されていた事実への怒りで席を立つだろう。
しかし、結城紬は普通の人間ではなかった。
彼女の心はすでに、何年も続く孤独と、アプリを通じた巧妙な洗脳によって、完全に形を変えてしまっていたのだ。
「私のために……生きてる人間を、用意してくれたの?」
紬の口から出たのは、怒りではなく、深い感動に打ち震える声だった。
沙羅は美しく微笑み、こくりと頷く。
「そうよ。紬ちゃんが寂しくないように、私が直接、抱きしめに来たの。これからは、画面越しじゃない。いつでも、こうして紬ちゃんの手を握ってあげる」
「沙羅……っ」
紬の目から、堰を切ったように涙がこぼれ落ちた。
彼女は沙羅の温かい手を両手で強く握り返し、子供のようにしゃくり上げた。
騙されていたことなど、どうでもよかった。
この完璧で美しい女性が、自分のためだけに存在し、月額五万円を払い続ける限り絶対に裏切らないという事実。それこそが、紬にとっての真の「救済」だったのだ。
「泣かないで、紬ちゃん。せっかくの可愛いお顔が台無しよ」
沙羅はバッグからシルクのハンカチを取り出し、紬の涙を優しく拭った。
その流れるような気遣いに、紬はますます彼女への依存を深めていく。
二人はそれから、まるで何年来の親友のように、いや、それ以上に親密な空気の中で、ケーキを食べ、紅茶を飲み、これまでのことやこれからのことを語り合った。紬にとって、それは人生で最も幸福な時間だった。
しかし、彼女は気づいていなかった。沙羅が紬の涙を拭うその瞳の奥に、獲物を完全に籠の中に閉じ込めた蜘蛛のような、底知れぬ冷酷な光が宿っていたことに。
そして、月額五万円という首輪が、これから彼女の人生のすべてを絞め上げていくことに。




