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『この安息の地からは退会できません。あなたに代わる「新しい生贄」の心当たりがない限り。』  作者: サカキカズキ


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【第11話】侵食される聖域

喫茶店を出た後も、結城紬は夢の中にいるような心地だった。隣を歩く沙羅の腕には、自分の腕がしっかりと絡められている。


布越しに伝わる柔らかな体温と、沙羅の髪から漂う微かな金木犀の香りが、紬の脳を甘く麻痺させていた。


「ねえ、紬ちゃん。今日、この後予定ある?」


駅に向かう道すがら、沙羅が不意に足を止めて覗き込んでくる。


「ううん、何もないよ。休日はいつも一人で部屋にいるだけだから」

「そっか。じゃあさ……紬ちゃんのお部屋、遊びに行ってもいい?」

「えっ」


紬は目を丸くした。


上京して何年も経つが、あの六畳のワンルームマンションに他人を招き入れたことなど一度もない。

散らかっているわけではないが、誰かに見せるための部屋ではないのだ。


「ダメ、かな……?」


沙羅が少しだけ眉を下げ、上目遣いで紬を見つめる。

その寂しそうな表情を見た瞬間、紬の中にあった僅かな躊躇いは消し飛んだ。


「ダメじゃない! 全然、いいよ。……ただ、すごく狭くて、何もない部屋だけど」


「嬉しい。紬ちゃんが普段どんな風に過ごしてるのか、もっと知りたいなって思ってたの」


沙羅は花がほころぶように笑い、紬の手をぎゅっと握り直した。





ドアを開け、沙羅を部屋に招き入れた瞬間、紬はひどく緊張していた。


しかし、沙羅は狭いユニットバスや、質素なベッドしかない部屋を見回しても、決して馬鹿にするような素振りは見せなかった。


「すごく綺麗にしてるね。紬ちゃんの匂いがして、落ち着く」


そう言って、沙羅はベッドの端に腰を下ろした。

その自然な振る舞いを見て、紬の胸の奥で何かが温かく溶けていく。


自分のパーソナルスペースに他人がいるというのに、ストレスどころか、圧倒的な安心感があった。

二人は並んでベッドに座り、スマホで動画を見たり、学生時代の思い出話をしたりした。


一時間ほど経った頃、沙羅がふと思い出したように口を開いた。


「ねえ、紬ちゃん。私たち、せっかくこうして本当の親友になれたんだから、もっと『共有』できることが増えたらいいなって思わない?」


「共有?」


「うん。例えば……スマホのパスコードとか、位置情報共有アプリとか」


沙羅の言葉に、紬は一瞬だけ瞬きをした。


「……パスコードを、教え合うの?」


「そう。だって、私たちに隠し事なんて必要ないでしょ? もし紬ちゃんが事故に遭ったり、倒れたりした時、私がすぐに駆けつけてスマホを開ければ、色々助けてあげられるし」


沙羅の声は、徹底的に紬の身を案じる慈愛に満ちていた。


「それに、私だけが紬ちゃんのことを知ってるのって、不公平だなって思って。だから、私のスマホのパスコードも教える。いつでも私のこと、見ていいんだよ」


そう言って、沙羅は自分の最新型のスマートフォンを紬の手に握らせた。


画面のロック画面には、つい先ほど喫茶店で撮ったばかりの、二人のツーショット写真が設定されていた。


「沙羅……」


そこまで自分を信用し、すべてを委ねようとしてくれる人間が、これまでの人生で果たしていたであろうか。

いや、いない。両親でさえ、ここまで自分に踏み込んではこなかった。


「……うん。分かった。私のパスコードはね、0824。上京してきた日の数字なの」


紬は、自分からスマートフォンのロックを解除し、沙羅に手渡した。


「ありがとう、紬ちゃん。嬉しいな」


沙羅は愛おしそうに紬のスマホを受け取ると、慣れた手つきで設定画面を開き、何らかの操作を始めた。


おそらく、お互いのGPS情報を常に共有するための設定か何かだろう。


「これで、紬ちゃんがどこにいても、すぐに見つけてあげられる。SNSの裏のアカウントも、パスワード教えてくれる? 紬ちゃんが嫌なこと言われてないか、私がパトロールしてあげるから」


「うん。アカウント名はね……」


もはや、抵抗という概念すら紬の頭にはなかった。

自らの生活のすべて、個人情報のすべて、社会との繋がりのすべてを、喜んで沙羅という神に捧げる。部屋に満ちる金木犀の香りが、少しだけ濃くなった気がした。


結城紬という人間の「聖域」は、こうして完全に、合法的に、他者の手によって明け渡されたのだった。






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