【第12話】見えない刃
月曜日の朝。
結城紬がオフィスの扉を開けると、フロアの空気がいつもよりさらに冷え切っているように感じた。気のせいではない。
すれ違った同僚の女性が、紬の顔を見るなり露骨に目を逸らし、逃げるように給湯室へ入っていった。
自分のデスクに向かって歩を進めると、周囲の社員たちがヒソヒソと囁き合っているのが嫌でも耳に入る。
「……おはようございます」
隣の席の先輩、篠原に声をかける。
篠原はPCのモニターから目を離さず、ひどく硬い声で「ああ」とだけ短く応えた。
先週まで、不器用ながらも紬を気遣ってくれていた彼の態度の急変。
さすがの紬も胸がざわついた。週末に何かあったのだろうか。
私、何か悪いことをしただろうか。不安になり、デスクの下でこっそりとスマートフォンを取り出す。
そして、沙羅に教えたばかりの「SNSの裏アカウント(鍵付き)」を開いた瞬間――紬は息を呑んだ。
自分のアカウントのタイムラインに、見覚えのない投稿が並んでいたのだ。
『職場の連中、本当にレベル低すぎて疲れる。特に隣の席のS、恩着せがましくて気持ち悪い』
『なんで私が愛想笑いしなきゃいけないの? 早く全員消えてくれないかな』
『週末のランチに誘われたけど、キモすぎたから断って正解だった。ストーカー予備軍じゃん』
投稿日時は、昨日の深夜。
言うまでもなく、紬自身が書いたものではない。
「これって……」血の気が引くのと同時に、さらに恐ろしい事実に気がついた。
このアカウントは「鍵付き(承認した人間しか見られない)」にして、愚痴を吐き出すための完全なプライベート空間だったはずだ。
しかし、設定画面を見ると、いつの間にか「公開(誰でも見られる状態)」に変更されている。さらに、ご丁寧に、職場の同僚たちや篠原の公開アカウント宛てに、これらの暴言ツイートが「いいね」や「リプライ」の形で直接通知されるように細工されていたのだ。
――会社のみんなに、この暴言が見られている。
全身から汗が噴き出した。
周囲の冷たい視線の理由が、完全に理解できた。私は今、職場で「裏では同僚を異常に罵倒している、性格の破綻した女」として扱われているのだ。
『ポンッ』震える手でスマホを握りしめていると、画面上部に通知がポップアップした。
沙羅からのメッセージだ。
『おはよう、紬ちゃん。出社したかな?』
『紬ちゃんのアカウント、私が見ておいたよ。あの会社の人たち、紬ちゃんにストレスを与えるだけの最悪なノイズだったから、私が代わりに「もう関わらないで」って伝えておいたの』
メッセージの横には、可愛らしい笑顔のスタンプが添えられている。
『これで、誰も紬ちゃんに無理な愛想笑いを強要しないよ。私、ちゃんと紬ちゃんのこと守れたかな?』
沙羅の仕業だ。
パスワードを教えたのだから、彼女ならログインして自由に書き込むことができる。普通なら、激怒する場面だ。
勝手にSNSを公開され、社会的な信用を失墜させられたのだ。
「何をしてくれたんだ」と警察に駆け込んでもおかしくない。
だが。
震える紬の脳裏に浮かんだのは、怒りではなかった。
――もう、職場の誰にも気を遣わなくていいんだ。嫌われた。
軽蔑された。
だからもう、これ以上「嫌われないように」と怯える必要はなくなったのだ。
篠原の善意にどう報いるか悩む必要もない。同僚の雑談にどう相槌を打つか考える必要もない。
『ありがとう、沙羅』
紬の指は、無意識のうちにそう打ち込んでいた。
『沙羅のおかげで、すごく楽になった。私には、沙羅だけいればいいよ』
送信ボタンを押した瞬間、周囲の冷ややかな視線も、篠原の拒絶も、不思議なほど何も感じなくなった。
社会からの完全な孤立。
それは、沙羅という絶対的な存在にすべてを委ねるための、美しく完璧な「儀式」だったのだ。




