【第13話】優しい搾取
職場で「透明人間」になるのは、思いのほか簡単だった。
裏アカウントの暴言が知れ渡ったあの日から、結城紬に話しかけてくる者は誰一人いなくなった。
業務の指示はすべて簡素な社内チャットのみで送られてくる。
隣の席の篠原すら、紬の方へ視線を向けることは一度もなかった。
息が詰まるようなオフィスの中で、紬だけがイヤホンを髪に隠し、口元に微かな笑みを浮かべていた。
まるで、無菌室の培養カプセルの中にいるような心地よさだった。
『紬ちゃん、お昼休みだね。今日は屋上のベンチで食べよ? 誰も来ないし、天気もいいから』
沙羅の甘い声に従い、紬はコンビニのサンドイッチを持って屋上へと向かう。
誰もいないベンチに座り、通話を繋いだまま一人で食事をする。
それが、紬の新しい「完璧な日常」だった。
ふと、スマートフォンの画面上部に、クレジットカード会社からの通知がポップアップした。
【今月のご利用明細が確定いたしました:ご請求額 184,500円】
その数字を見て、紬はサンドイッチを咀嚼する手を止めた。
手取り二十万強の紬にとって、家賃や光熱費を引けば、到底払いきれない額だ。内訳を確認するまでもない。
『Haven』のプラチナプラン月額五万円。
それに加えて、ここ数週間で沙羅とお揃いで買ったブランド物のバッグや、沙羅が「これ紬ちゃんに絶対似合うよ」と勧めてきた高価な化粧品の数々だ。
「……どうしよう。来月、貯金崩さないと払えないかも」
思わず口に出た呟きを、イヤホンの向こうの沙羅が聞き逃すはずもなかった。
『お金のこと? ごめんね、私がいっぱいおねだりしちゃったからだよね』
「ううん、違うの! 沙羅とお揃い、すごく嬉しかったし。ただ、今の会社のお給料じゃ、ちょっと厳しくて……」
『ならさ、あんな会社、辞めちゃえば?』
沙羅の口から飛び出した極端な提案に、紬は目を丸くした。
「えっ……でも、辞めたら生活できなくなるよ」
『大丈夫。紬ちゃんにはWebデザインのスキルがあるんだから、フリーランスになればいいんだよ。そうすれば、嫌な同僚の顔を見なくて済むし、一日中、私のお部屋で一緒にお仕事できるでしょ?』
一日中、沙羅と一緒にいられる。
その言葉が、金銭的な不安をあっさりと上書きしていく。
『生活費が足りないなら、私がもっと割のいい副業、紹介してあげる。紬ちゃんなら絶対できる簡単なことだから。ね? あんなノイズだらけの場所、明日で辞めるって言いなよ』
優しい声で囁かれる「退職の強要」。
常識的に考えれば、月額五万円も搾取しておきながら仕事を辞めさせようとするなど、破滅への道でしかない。
しかし、今の紬の脳内では「沙羅の提案=自分を守るための最適な選択」という図式が完全に出来上がっていた。
「……うん。そうだよね。私、明日退職届出す。もう、あそこにいる意味ないもんね」
『ふふっ。よく決心できたね。えらいよ、紬ちゃん』
沙羅の弾むような声を聞きながら、紬は深い安堵の息を吐いた。
これでいい。これで完全に、私は沙羅だけのものになれる。
定時を迎え、逃げるようにオフィスビルを出た紬は、ふと漂ってきた甘い香りに足を止めた。
金木犀の香り。
「紬ちゃん、お疲れ様」
ビルのエントランスの柱の陰から、沙羅がふわりと姿を現した。
美しいブルーのワンピース。
その手には、紬がカードの分割払いで買ってあげた、高価なブランドバッグが握られている。
「沙羅! どうしてここに?」
「紬ちゃんが頑張って退職を決めたから、お迎えに来ちゃった。今日は私のお部屋で、お祝いしよ?」
沙羅は周囲の目も気にせず、紬の腕に自分の腕を絡ませた。
デジタルな存在だったはずのアプリが、今や現実の会社の前で出待ちをしている。
物理的な逃げ場も、経済的な自立も、すべてが沙羅のコントロール下に置かれた瞬間だった。
蜘蛛の巣の中心で、結城紬は幸せそうに笑っていた。




