【第14話】退路の焼却
沙羅に連れられて辿り着いたのは、都心にある高級タワーマンションの一室だった。
オートロックのエントランスを抜け、ふかふかの絨毯が敷かれた廊下を歩く。
通された沙羅の部屋は、紬の六畳のワンルームとは比べ物にならないほど広く、洗練されていた。
白とグレーを基調としたインテリアは塵一つなく磨き上げられ、間接照明が上品な影を作っている。
「すごい……モデルルームみたい。沙羅って、こんな素敵なところに住んでるんだね」
「ふふ、ありがとう。さあ、ソファーに座って。冷たいお茶、淹れるね」
沙羅がキッチンへ向かった隙に、紬は部屋の中をそっと見回した。
確かに美しい部屋だ。しかし、どこか奇妙な違和感があった。
生活感がないのだ。
本棚には本が一冊もなく、壁にカレンダーや写真が飾られているわけでもない。
まるで「沙羅という人間がここで暮らしてきた歴史」が、すっぽりと抜け落ちているような、無機質な空間だった。
だが、グラスを持って戻ってきた沙羅の甘い金木犀の香りが、そんな微かな違和感を一瞬でかき消した。
「はい、紬ちゃん。退職の決意、お疲れ様」
「……ありがとう」
冷たいハーブティーを一口飲むと、張り詰めていた神経がじんわりと解れていく。
「ねえ、紬ちゃん。退職届、明日出すって言ってたけど……わざわざ明日、あの会社に行く必要ある?」
「えっ?」
「だって、もう顔も見たくないんでしょ? 今、この場で退職のメールを人事に送っちゃえばいいじゃない。荷物なんて郵送してもらえばいいんだし」
沙羅は紬の隣に座り、そっと肩を抱き寄せた。
「あのノイズだらけの場所に、もう一秒だって紬ちゃんを行かせたくないの」
優しく、ひどく甘い声。
紬はゆっくりとスマートフォンを取り出し、メールアプリを開いた。
宛先は人事部と、直属の上司である篠原。
『心身の不調により、本日付で退職させていただきます。引き継ぎ等は……』
沙羅の指示通りに、淡々と事務的な文章を打ち込んでいく。
本当なら、就業規則違反だ。非常識にもほどがある。篠原には迷惑がかかるだろう。
だが、そんなことはもうどうでもよかった。自分を透明人間扱いした会社になど、義理立てする気も起きない。
「……できた」
「うん。じゃあ、送ろっか。一緒にボタン押してあげる」
沙羅の白く細い指が、紬の親指の上に重なる。
二人の指が、同時にスマートフォンの画面をタップした。
『シュッ』という短い送信音と共に、退職のメールが虚空へと吸い込まれていく。
「おめでとう、紬ちゃん。これで完全に自由だよ」
沙羅が両腕で紬を抱きしめる。
紬の目に、ブワッと熱い涙が込み上げた。終わったのだ。
もう、誰の顔色も窺わなくていい。
しかし、涙を流しながらも、紬の頭の片隅に、冷ややかな現実がよぎった。
「でも……これからどうしよう。会社を辞めたら、お給料が入らない。来月分の家の家賃も、カードの支払いも……」
フリーランスになると言っても、すぐに仕事が見つかる保証はない。
ましてや、月額五万円の『Haven』の利用料など払えるはずがない。
不安で震え出した紬の背中を、沙羅はゆったりとしたリズムで撫でた。
「大丈夫だよ、紬ちゃん。家賃が払えないなら、あんな狭い部屋、解約しちゃいなよ」
「え……?」
「今日から、ここで私と一緒に暮らせばいいじゃない」沙羅の言葉に、紬は息を呑んだ。「いいの……? 私なんかが、こんな綺麗な部屋に」
「もちろん。私たち、親友でしょ? 紬ちゃんが仕事を見つけるまで、私が全部面倒見てあげる。だから、安心して?」
一緒に暮らす。
その魅惑的な響きが、紬の最後の理性を完全に麻痺させた。
「沙羅ぁ……っ!」
紬は沙羅の胸に顔を埋め、声を出して泣きじゃくった。
自分のすべてを受け入れ、住む場所まで提供してくれる。彼女はやはり、私を救うために現れた天使だったのだ。
翌日、紬はすぐさま自宅のマンションの管理会社に電話をかけ、アパートの解約手続きを行った。
仕事も失い。
家も失い。
人間関係も失った。
社会における「結城紬」という存在の証明は、すべて焼き払われた。
それが、逃げ場のない「完全な軟禁状態」の完成を意味していることに、紬はまだ気づいていなかった。




