【第15話】純白の鳥籠
柔らかな朝の光と、淹れたてのコーヒーの香りで結城紬は目を覚ました。見慣れた六畳間のシミだらけの天井ではない。
白を基調とした、ホテルのように洗練された寝室。極上の肌触りのシーツ。
キッチンの方からは、ベーコンを焼く心地よい音が聞こえてくる。
「……夢じゃ、ないんだ」
会社を辞め、アパートを解約し、着替えだけを入れたキャリーケース一つで沙羅のマンションに転がり込んでから三日が経っていた。
この三日間、紬は文字通り「何もしない」生活を送っていた。
食事はすべて沙羅が完璧な栄養バランスで作ってくれるし、掃除も洗濯も沙羅がやってくれる。紬はただ、ソファーで映画を見たり、沙羅と他愛のないお喋りをしたりするだけだ。
「おはよう、紬ちゃん。よく眠れた?」
エプロン姿の沙羅が、寝室に顔を覗かせた。
その完璧な微笑みを見るだけで、紬の心は満たされる。自分の選択は間違っていなかったのだと、深く安堵する。
「おはよう、沙羅。……あれ?」
起き上がった紬は、枕元やサイドテーブルを手で探った。
「私のスマホ、見なかった? 昨日寝る前にベッドに置いたはずなんだけど」
「ああ、スマホなら私が預かってるよ」
沙羅は悪びれる様子もなく、エプロンのポケットから紬のスマートフォンを取り出した。
「え……?」
「紬ちゃん、昨日も夜中に無意識に画面見てたでしょ? せっかくあの会社を辞めてストレスから解放されたのに、デジタルデトックスしないと自律神経が休まらないよ」
「それは、そうだけど……でも、アパートの退去の件で、管理会社から電話が来るかもしれないし」
「大丈夫。紬ちゃんのスマホの設定、いじっておいたから」
「いじった?」
沙羅は事もなげに微笑んだ。
「紬ちゃんのスマホにかかってきた電話、全部私のスマホに転送されるようにしておいたの。面倒な手続きややり取りは、全部私が代わりにやってあげる。紬ちゃんは何も心配しなくていいんだよ」
背筋を、一筋の冷たい汗が流れ落ちた。
転送設定。いつの間にそんなことを?
いくら親友とはいえ、他人の通信をすべて自分の手元に集約させるなど、常軌を逸している。
「……でも、さすがにそれは」
「あ、そうだ。これ見て」
反論しようとした紬の言葉を遮るように、沙羅は紬のスマホの画面をタップし、紬の目の前に突きつけた。
表示されていたのは、メッセージアプリの画面だ。
送信者は、元の職場の先輩――篠原。
『結城、急にどうした。退職届見たぞ。いくらなんでも非常識だろ。何かトラブルに巻き込まれてるなら相談に乗るから、これを見たらすぐ電話しろ』
口調は厳しいが、行間からは紬を本気で心配している焦りが滲み出ていた。
彼だけは、紬の異変に気づき、手を差し伸べようとしてくれていたのだ。
「篠原さん……」
紬がスマホに手を伸ばそうとした瞬間、沙羅の細い指がスッと画面をスワイプした。
【このユーザーをブロックして、トーク履歴を削除しますか?】
という赤い警告文が出現する。
「あ、待って……!」
『削除』
紬の制止も虚しく、沙羅は一切の躊躇いなく削除ボタンをタップした。
篠原からのメッセージが、画面から跡形もなく消え去る。
「沙羅、なんで!」
思わず声を荒らげた紬に対し、沙羅はきょとんとした顔で首を傾げた。
「え? だって、紬ちゃんを怒るようなメッセージ、見たくないでしょ? あんなノイズ、紬ちゃんには必要ないじゃない」
「でも、篠原さんは心配して……」
「心配?」
沙羅の声の温度が、スッと数度下がった。
「紬ちゃんを心配して、守れるのは、この世界で私だけだよ」
沙羅はゆっくりと紬の頬に手を伸ばし、優しく撫でた。
いつもなら心地よいはずのその冷たい指先が、今はひどく恐ろしいものに感じられた。
部屋に漂う甘い金木犀の香りが、突然、呼吸を塞ぐほどに息苦しく、重たくのしかかってくる。
「紬ちゃんには、私だけいればいい。他の人間は全員、紬ちゃんを傷つけるだけの敵なんだから」
沙羅の瞳の奥底に、黒々と渦巻く狂気の淵が見えた。
それは「優しさ」という皮を被った、絶対的な「支配」だった。
仕事はない。
家もない。
そして今、外部と連絡を取る手段すらも、完全に沙羅に掌握された。
月額五万円で手に入れた安息の地が、実は決して外から開けることのできない「純白の鳥籠」であったことに、結城紬はついに気づいてしまった。




