【第16話】消せない呪い
「紬ちゃん、ちょっと下までお買い物に行ってくるね。今日のお昼、オムライスでいい?」
「……うん。いってらっしゃい」
沙羅が玄関のドアを閉め、オートロックの施錠音がカチャリと響いた瞬間。
ソファーで膝を抱えていた結城紬は、弾かれたように立ち上がった。
沙羅が私のスマホを取り上げてから、丸一日が経過していた。
優しい言葉遣いも、完璧な気遣いも、今となっては薄ら寒い恐怖でしかない。
あの異常な執着心。篠原からのメッセージを迷いなく消去した時の、冷たい瞳。
――逃げなきゃ。
完全に、取り返しのつかなくなる前に。
紬はリビングの引き出しや、沙羅の寝室を漁り始めた。
仕事も家も失った今、唯一残された社会との繋がりは、あのスマートフォンだけだ。
あれさえ手元に戻れば、警察に相談するなり、実家の親に助けを求めるなりできる。
「あった……!」
キッチンの戸棚、綺麗に並べられたタッパーの奥に、見覚えのあるスマホが隠されていた。
震える手で掴み取り、電源ボタンを押す。
画面が点灯し、通知が一つもない真っ更な待ち受け画面が表示された。
ともかく、まずはあの忌まわしいアプリを消さなければ。
すべての元凶であり、沙羅と私を繋ぐ呪いのシステム、『Haven』。
ホーム画面にある、ネイビーとアンバーのグラデーションのアイコン。
紬はそれを親指で長押しし、震える指先で【Appを削除】の文字をタップした。
『本当に削除しますか?』という確認画面が出る。
迷わず【はい】を押した。
しかし。
アプリアイコンは小刻みに震えるだけで、一向に画面から消えようとしない。
「え……なんで?」
もう一度、長押しして削除をタップする。
やはり消えない。
それどころか、何度目かのタップをした瞬間、画面が突如として深紅に染まり、警告を告げる不快な電子音がけたたましく鳴り響いた。
【警告:退会手続きが完了していません】
画面の中央に、黒々とした文字が浮かび上がる。
【未手続きのまま本アプリを強制削除しようとする行為は、利用規約第十八条違反に該当します】
【これより三十秒以内に削除を中止しない場合、利用者の精神的危急とみなし、ご家族の連絡先および提携SNSアカウントへ、利用者の全音声データ・行動ログを保護要請として自動送信します】
「は……?」
全音声データ。
行動ログ。
それはつまり、紬が自分のスマホのカメラとマイクを通じて、沙羅に監視されていた日々のすべて。
休日の自堕落な姿や、職場の同僚に対する数々の暴言、そして沙羅に依存しきって泣きじゃくったあの惨めな音声。
それらがすべて、親や、会社の人間の元へばら撒かれるということだ。
「やめて、やめてっ……!」
紬は半狂乱になりながら、【中止】のボタンを何度も連打した。
警告音がピタリと止み、いつものパステルカラーのホーム画面が戻ってくる。
消せない。
アンインストールできない。
合法的で、完璧にシステム化された「人質」。絶望で膝から崩れ落ちそうになった、その時だった。
「――やっぱり、そういうことするんだ」
背後から、氷のように冷たい声が降ってきた。
振り返ると、リビングの入り口に、沙羅が立っていた。買い物に行ったはずの彼女の手には、財布もエコバッグも握られていない。
最初から、出かける気などなかったのだ。紬がスマホを探すかどうかを「試した」だけ。
「沙羅、これは……」
「ひどいな、紬ちゃん。私、あんなに紬ちゃんのこと愛してあげてるのに。全部許して、この部屋に置いてあげてるのに。……私を捨てるの?」
沙羅がゆっくりと近づいてくる。
その表情には、いつもの美しい微笑みは欠片もなく。
ただ、裏切られたことへのどす黒い怒りと、猟奇的なほどの執着が、瞳の中で燃えたぎっていた。
「ごめんなさい、沙羅、違うの、私はただ……」
後ずさる紬の背中が、冷たい壁にぶつかる。
沙羅は紬の顔の横にドンッと手をつき、逃げ場を完全に封じた。
「退会したいなら、ルールを守らないとダメでしょ、紬ちゃん」
沙羅の顔が近づく。
金木犀の香りが、腐敗した甘さのように鼻腔を突いた。
「自分だけ逃げるなんて、許さないよ」




