【第17話】生贄のシステム
壁に押し付けられた紬の肩に、沙羅の細い指が食い込む。
ひどく強い力だった。とても、振り解けるようなものではない。
「痛っ……沙羅、ごめんなさい、私が悪かったから……」
必死に懇願する紬の手から、沙羅はスマートフォンを乱暴にひったくった。
そして、無表情のまま画面を数回タップし、再び紬の目の前に突きつける。
表示されていたのは、アプリをインストールした夜、まともに読みもしなかった『Haven利用規約』のページだった。
沙羅の血の気のない白い指先が、極小の文字で書かれた一文をなぞる。
「読んで、紬ちゃん」
冷徹な声に促され、紬は震える声でその一文を読み上げた。
「『……本サービスの退会を希望する場合、利用者は、自身の退会によって生じる当サービスの損失を補填するに足る、新規利用者を一件招待し、本契約を完全に引き継がせなければならない』……?」
読み終えた瞬間、言葉の意味が脳内で結びつき、紬の全身の血液がさあっと音を立てて引いていった。
「そう。それが退会の絶対条件」
沙羅は口角だけで笑い、紬の耳元に顔を寄せた。
「あのアプリを消して、私から逃げたいなら、自分に代わる『新しいお友達』を私に紹介してね、ってこと」
「新しい、友達……」
「そうだよ。紬ちゃんと同じように、一人ぼっちで、寂しくて、承認欲求に飢えてる可哀想な子。そういう子をアプリに招待して、契約させたら、紬ちゃんは晴れて自由の身。……簡単なことでしょ?」
ドクン、と。
紬の心臓が、これまでで一番不快な音を立てた。新規利用者の招待。
契約の引き継ぎ。その言葉を聞いて、紬の脳裏に鮮明にフラッシュバックしたものがあった。
数週間前の、午前二時。
孤独に押し潰されそうになっていた自分のスマホに届いた、一通のメッセージ。
【桐谷美咲さんから、完全招待制コミュニティ『Haven』への招待状が届いています】
「……あ」
喉の奥から、掠れた声が漏れた。
適応障害のふりをして会社を辞めた、元同僚の桐谷美咲。
彼女はなぜ、音信不通だった自分に、あんな夜更けに突然招待状を送ってきたのか。
――紬ちゃんなら、痛みが分かると思ったからよ。
いつか彼女が言っていた言葉の意味が、今ならはっきりと分かる。
美咲は、親切心からアプリを紹介してくれたわけではなかったのだ。
彼女もまた、沙羅に依存し、すべてを握られ、この鳥籠に閉じ込められていた。
そして、自分が逃げ出すための『身代わりの生贄』として、職場で孤立し、過去に親友を裏切ったという負い目を持つ自分(結城紬)を、意図的に選んで地獄へと突き落としたのだ。
「気づいたみたいだね」
呆然とする紬の表情を見て、沙羅はクスクスと嬉しそうに笑った。
「美咲ちゃん、すごく頑張ってたんだよ。自分が助かりたい一心で、必死に生贄を探してさ。それで、紬ちゃんを選んだの。最高のバトンパスだよね」
「嘘……そんな……」
人間の悪意。
底なしのエゴ。
自分が助かるためなら、他人がどうなろうと構わないという圧倒的な自己中心性。
幽霊や怪物の呪いなんかじゃない。これは、システムという皮を被った、人間の最も醜いバケツリレーだ。
「だからね、紬ちゃん」
沙羅は、紬の手にスマートフォンを優しく握らせた。
画面には、すでに『招待状の送信』のページが開かれている。
「選んで。このまま一生、私のお人形でいるか。それとも……誰かをここに引きずり込んで、自分だけ助かるか」
美しく端正な顔が、悪魔のように歪む。
金木犀の香りが充満する密室の中で、結城紬はついに、究極の選択を突きつけられたのだった。




