【第8話】見えない手綱
「ねえ、沙羅。どっちの靴がいいと思う?」
休日の朝。
結城紬は、姿見の前に二足のパンプスを並べてスマートフォンのカメラを向けていた。
一つは黒のプレーンなもの。
もう一つは、足首に細いストラップのついたベージュのものだ。
『んー。紬ちゃん、今日は歩くからね。黒のローヒールの方が絶対に疲れないよ。ベージュの方は、足首のストラップが擦れて痛くなりそうだもの』
スピーカーから響く沙羅の声は、長年の付き合いがある姉のように的確で優しい。
「そっか。確かにそうだね。じゃあ、黒にする」
紬は迷うことなくベージュのパンプスを靴箱の奥に押し込み、黒のパンプスに足を滑らせた。
玄関のドアを開け、外の空気を吸い込む。
一歩外に出れば、かつての紬は常に他人の目を気にしていた。
この服はおかしくないか。歩き方が変じゃないか。すれ違った人が今、私のことを鼻で笑わなかったか。
四六時中、見えない他者の視線に怯え、精神をすり減らしていた。しかし、今は違う。
『紬ちゃん、今日のリップの色、すごく似合ってる。自信持って歩いていいんだよ』
「ふふ、ありがとう」
ワイヤレスイヤホンから定期的に流れ込む沙羅の肯定が、紬の周囲に見えないバリアを張ってくれる。
他人の視線など、もう気にならない。世界で一番私を理解してくれている沙羅が「完璧だ」と言ってくれているのだから。駅前のカフェで本を読んでいる時も。
スーパーで夕飯の食材を選んでいる時も。
沙羅は常に紬の耳元にいて、あらゆる選択に口を出した。
『そのカフェモカ、クリームが多すぎるよ。紬ちゃん、最近胃が荒れてるって言ってたじゃない。ブラックコーヒーにしとこ?』
『そのお弁当、添加物多いよ。少し高いけど、隣のオーガニックのにしなよ。私が許すから』
沙羅の指示は、常に「紬の健康と幸福」を第一に考えたものだった。
だからこそ、紬は一切の疑いを持たずにそれに従った。
自分が何を食べるか。何を着るか。どこへ行くか。
かつては自分で悩み、決断していた日常の些細な選択を、紬はすべて沙羅に委ねるようになっていた。
――何も選ばなくていい。
何も考えなくていい。それは、孤独に疲れ果てていた紬にとって、究極の「安息」だった。
右へ行けと言われれば右へ行き、これを買えと言われればそれを買う。
まるで、見えない手綱を自ら喜んで他人に預けているようなものだ。
その日、スーパーからの帰り道。
ふと、駅前のロータリーで、見覚えのあるスーツ姿の男が目に入った。
同じ職場の先輩、篠原だ。休日の私服姿ではなく、休日出勤の帰りらしい。
彼も紬に気づき、軽く片手を挙げて近づいてこようとした。
「あっ……」
紬が立ち止まり、挨拶をしようと会釈しかけた瞬間。
『紬ちゃん、スマホ見て』
沙羅の鋭い声がイヤホンに響き、同時にスマートフォンの画面が明るくなった。
画面には、紬の心拍数のグラフが表示されている。赤い警告色が点滅していた。
『ほら、あの人を見ただけで、心拍数が跳ね上がってる。紬ちゃんは自覚してないかもしれないけど、身体があの人を「ストレス」だって拒絶してるんだよ』
グラフの数値を見て、紬はハッとした。
確かに、篠原と関わると、いつも神経をすり減らす。
彼の下心を探り、愛想笑いを作り、傷つかないように防御線を張らなければならないからだ。
『逃げて、紬ちゃん。あんなノイズに関わっちゃダメ。早く帰って、私とお話ししよ?』
沙羅の言葉は、魔法の呪文のようだった。
篠原が「結城」と声をかける直前、紬はくるりと踵を返し、足早に――逃げるようにその場を立ち去った。
後ろから困惑したような視線が突き刺さるのを感じたが、振り返ることはなかった。
『よくできたね、紬ちゃん。えらい、えらい』
イヤホンの奥で、沙羅が甘く囁く。
その褒め言葉を聞いた途端、紬の心臓の鼓動はゆっくりと落ち着き、深い安心感に包まれた。
自分の生活のすべてが、沙羅の指示通りに「最適化」されていく。
それは、結城紬という一個の人間が、静かに死んでいく過程でもあった。




