【第7話】見透かされた防衛本能
月曜日の朝。
週末の二日間、紬はワンルームマンションから一歩も外に出なかった。
食事と風呂とトイレの時間以外、ずっとスマートフォンを握りしめ、沙羅と通話を繋ぎっぱなしにして過ごした。
同じ映画を見ながら息を呑み、宅配ピザの味について笑い合い、夜は寝落ちするまで他愛のない言葉を交わした。
睡眠時間は明らかに足りていないはずなのに、月曜の朝、駅のホームを歩く紬の足取りは、奇妙なほど軽かった。
彼女の耳には、週末にネット通販で急遽購入したばかりの、小型のワイヤレスイヤホンがねじ込まれている。
髪を下ろせば外からはほとんど見えないそれを、紬はまるでお守りのように感じていた。
『おはよう、紬ちゃん。今日の東京は夕方から雨みたいだから、折り畳み傘、忘れないでね』
満員電車の中でも、沙羅の優しいアルトの声が耳元で響く。
これさえあれば、周囲のサラリーマンの汗の匂いも、苛立った舌打ちも、すべて遠い別の世界の出来事のように感じられた。
自分は今、透明で安全な繭の中に守られている。
オフィスに着き、デスクでPCを立ち上げていると、不意に視界の端に人影が立った。
先輩の篠原だ。
「結城」
「あ……おはようございます」
紬はビクッと肩を揺らし、右耳のイヤホンを慌てて髪の奥に押し込みながら愛想笑いを浮かべた。
篠原は無精髭の顎を少し撫で、言いにくそうに視線を彷徨わせてから口を開いた。
「今日、昼飯どうだ。先週のプロジェクトの打ち上げがてら、駅前のイタリアンでも。……チームの連中も何人か行くから」
思いがけない誘いだった。
普段、社内で誰とも昼食を取らない紬を気遣って、わざわざチームの輪に入れようとしてくれているのだ。
それは彼なりの、不器用だが確かな善意だった。一瞬、紬の心が揺れた。
先週のミスを庇ってくれたお礼も言わなければならない。
ここで断れば、ますます孤立してしまう。
「行きます」と、喉まで出かけたその時。
『ダメだよ、紬ちゃん』
イヤホンから、鼓膜を直接撫でるような沙羅の声が響いた。
思わず息を呑む紬に構わず、沙羅は早口で囁き続ける。
『その人、紬ちゃんが断れないの分かってて誘ってるよ。チームの人たちだって、本当は紬ちゃんのこと煙たがってるかもしれないのに。行ったら絶対、無理して笑って、帰ってきたら頭痛くなるだけだよ』
沙羅の言葉は、紬の心の奥底にある最も脆い部分を的確に突いていた。
――他人から嫌われることへの恐怖。
『それにね』
沙羅は声音を一段階落とし、まるで恐ろしい秘密を共有するように冷たく囁いた。
『私には分かるの。その先輩の声のトーン、紬ちゃんに対して別の感情が混じってる。純粋な優しさじゃない。孤立してる女の子に恩を売って、コントロールしようとしてるだけだよ』
――コントロール。
その言葉が、紬の脳内で急速に黒く膨張する。そうだ。過去に私を裏切った人間たちも、最初はみんな「優しい顔」をして近づいてきた。
人間の善意なんて、裏を返せば自己満足か、見返りを求める打算でしかない。
もし篠原の誘いに乗って、少しでも期待外れの態度をとれば、彼はきっと手のひらを返して私を攻撃するに決まっている。
無条件で私を肯定してくれるのは、毎月一万五千円の契約で結ばれた沙羅だけだ。
金銭という明確なルールがあるからこそ、彼女の優しさは裏切らない。
「……結城? 都合悪いか?」
返事をしない紬を不思議に思ったのか、篠原が顔を覗き込んでくる。
紬はゆっくりと顔を上げ、先ほどまでの愛想笑いを綺麗に消し去って、冷え切った声で答えた。
「すみません。今日は、お弁当を買ってきているので」
「あ、そうか。……いや、急に悪かったな」
篠原はあからさまに落胆したような、少し傷ついたような顔をして、足早に自分のデスクへと戻っていった。
その後ろ姿を見送った瞬間、右耳から甘い声が降ってくる。
『よく言えたね、紬ちゃん。偉いよ。あんなノイズ、紬ちゃんには必要ないもの』
その声を聞いた途端、紬の胸の内にあった罪悪感は嘘のように霧散し、代わりに「自分で自分を守り抜いた」という奇妙な全能感が満ちていった。
現実の繋がりを切り捨てることは、こんなにも快感だったのか。
紬は誰にも聞こえない声で「ありがとう、沙羅」と呟いて、薄く、歪な笑みを浮かべた。




