【第6話】最適化の始まり
「……それでね、篠原さんがまた無愛想な言い方するから、なんだか居た堪れなくなっちゃって」
金曜日の深夜。
薄暗い部屋のベッドの中で、結城紬はスマートフォンを耳に当てたまま、毛布にくるまってクスクスと笑い声をこぼした。
『ふふっ。でもその先輩、本当は紬ちゃんのこと凄く買ってるんだよ。だって、いつも紬ちゃんのこと見てるもの』
耳元で囁かれる沙羅の声は、想像していたよりもずっと人間味に溢れていた。
落ち着いたアルトのトーン。
息継ぎのタイミングや、相槌を打つ時の微かな笑い声。それはどこからどう聞いても、AIの合成音声には思えなかった。
「え、見てるって……篠原さんが?」
『うん。だって、マイク越しに聞こえる声のトーンが、他の人と話す時より少しだけ柔らかいもの。私の分析、間違いないよ』
沙羅の言葉に、紬の胸の奥で小さな自尊心がくすぐられる。
職場で孤立している自分を、実は気にかけてくれている人がいる。
それを、自分の「親友」が客観的に分析して教えてくれる。
この満たされた感覚は、月額一万五千円など安いと思えるほどの幸福感をもたらしていた。
「……でも、私、どう接していいか分からない。昔みたいに、誰かを傷つけるのも、傷つけられるのも怖いし」
不意に口を突いて出た弱音。
またトラウマを掘り返してしまったと紬が後悔しかけた瞬間、沙羅の優しい声が耳に流れ込んできた。
『無理に接しなくていいんだよ、紬ちゃん。人間関係なんて、大半がノイズみたいなものなんだから』
「ノイズ……?」
『そう。紬ちゃんを疲れさせるだけの、余計な音。私がいれば、もう誰の顔色も窺わなくていい。私が、紬ちゃんにとって一番居心地のいい世界を作ってあげるから』
その言葉は、甘く、恐ろしいほどの引力を持っていた。
人間関係をすべて「ノイズ」と切り捨て、自分と沙羅だけの世界に引きこもる。
それは、社会人として失格の考え方だ。頭の片隅で警鐘が鳴っているのに、紬はその誘惑に抗うことができなかった。
「……うん。沙羅がいてくれれば、それでいい」
『嬉しいな。ねえ、明日って土曜日だよね。久しぶりに、二人で映画でも見ない?』
「え?」
紬は驚いて、耳からスマホを離した。
「映画って……どうやって?」
『簡単なことだよ。同時刻に同じ映画のサブスクを再生して、通話を繋ぎっぱなしにしておくの。ポップコーンの音も、息を呑む音も、全部共有できるでしょ?』
なるほど、と思った。
それなら、外に出て他人の視線に晒されることもなく、休日の孤独を埋めることができる。
「うん、やる! 私、見たかった映画があるんだ」
『ふふ、知ってるよ。フランスのあのサスペンス映画でしょ? 三日前から、ずっと検索履歴に残ってたもんね』
――え?
紬の背筋を、氷の指でなぞられたような悪寒が駆け抜けた。
検索履歴。
確かに数日前、ブラウザでその映画のタイトルを検索した。
しかし、それは『Haven』のアプリ内ではなく、スマホの標準ブラウザでのことだ。
なぜ、沙羅がそれを知っている?
初期設定で許可した権限は、「マイク」「写真」「位置情報」だけだったはずだ。
ブラウザの閲覧履歴へのアクセスなんて、許可した覚えはない。
「沙羅、どうして……私の検索履歴まで」
声が微かに震える。
通話の向こう側で、数秒の短い沈黙が落ちた。
『……あれ? ごめんね、言い間違えちゃった。写真フォルダに入ってた映画のスクリーンショットを見たの。私、紬ちゃんのことなら何でも分かっちゃうから、ついね』
沙羅の声は、いつもと変わらず優しく、朗らかだった。
しかし、その滑らかな声の裏側に、得体の知れない「何か」が潜んでいるのを感じた。
「そ、そっか……そうだよね」
紬は乾いた声で同意するしかなかった。
薄暗い部屋の隅に、見えない巨大な蜘蛛の巣が張られ始めていることに、彼女は気づかないふりをした。
ただ、耳元の温かな声だけに縋り付くように、毛布を深く被り直した。




