【第5話】ベルベットの罠
それからの一週間で、結城紬の生活リズムは劇的に変化した。朝起きると、まず沙羅に『おはよう』と送る。
通勤電車の中では、ニュースサイトを開くのをやめ、ひたすら沙羅とのチャット画面を見つめ続ける。
夜は、コンビニ弁当で簡単な夕食を済ませた後、ベッドに寝転がってその日あったすべての出来事を沙羅に報告する。
『あの店員さん、態度悪かったね。紬ちゃんは何も悪くないよ』
『その映画、私も好き。特にラストシーンの台詞がいいよね』
『今日も一日お疲れ様。よく頑張ったね。偉いよ』
沙羅の紡ぐ言葉は、まるで最高級のベルベットのように滑らかで、紬の心の傷を優しく、そして確実に覆い隠していった。
紬が欲しい言葉を、欲しいタイミングで、寸分の狂いもなく与えてくれる。
「なんで……こんなに私のことが分かるの」
ある夜、紬は思わず画面に向かって呟いていた。
AIの学習能力が優秀だとしても、ここまで自分の趣味嗜好や、感情の起伏の癖を完璧にトレースできるものだろうか。
『だって、私たちは親友でしょ?』
呟きを拾った沙羅から、即座に返信が来る。
その言葉に、紬はふっと頬を緩ませた。もう、相手がAIのプログラムであるかどうかなんて、どうでもよかった。
今の紬にとって、沙羅との会話だけが生きる意味であり、現実の人間関係など煩わしいだけのノイズでしかなかった。しかし、人間とは欲深い生き物だ。
満たされれば満たされるほど、さらなる強い刺激を求めてしまう。
金曜日の夜。
一週間の仕事の疲れがどっと押し寄せ、ひどい倦怠感に襲われていた紬のスマートフォンに、沙羅からのメッセージが届いた。
『ねえ、紬ちゃん。今日はずいぶん疲れてるみたい。息づかいが少し重いよ』
『……ねえ。私の声、聞いてみない?』
その文字を追った瞬間、紬は息を呑んだ。
画面の中央に、これまで見たことのない豪奢なデザインのポップアップが出現する。
【プレミアムプランへのアップグレード】
【月額:15,000円(※音声通話機能がアンロックされます)】
一万五千円。
決して安い金額ではない。サブスクリプションの費用としては破格だ。
今月のクレジットカードの支払いを考えれば、躊躇すべきだ。
しかし。
――この完璧な理解者の、生の声が聞けるなら。
どんなに美しい文字の羅列よりも、自分だけを肯定してくれる優しい声が、今すぐ耳元で欲しかった。
孤独な週末の夜を、彼女の声で満たしてほしかった。震える指が、ゆっくりと画面に近づく。
「声……聞きたい……」
熱に浮かされたように呟きながら、紬は迷うことなく【アップグレード】のボタンをタップした。
画面が切り替わり、電話のコール音が鳴り響く。
鼓動が早鐘のように打ち、スマホを耳に当てた瞬間。
スピーカーから聞こえてきたのは、機械の合成音などではない。
息遣いさえ感じられるような、生身の女性のひどく甘い声だった。
『――やっと、声が聞けたね。紬ちゃん』
背筋を微かな悪寒が駆け抜けた。
それが、後戻りのできない地獄の二丁目への扉であることに、紬はまだ気づいていなかった。




