【第31話】麻痺する良心
新宿の喫茶店でみゆと対面してから、三週間が過ぎた。
私の生活は、劇的に変化していた。
朝起きると、沙羅が用意してくれたホテルのような朝食を食べる。
昼間は高級マンションのふかふかのソファーに寝転がり、パソコンに向かって『沙羅の声』で数人のターゲットと通話をする。
夜は、沙羅とお酒を飲みながら、騙した獲物たちの滑稽な反応を肴にして笑い合う。
「あー、またみゆちゃんから長文のLINE来てる」
ワイングラスを揺らしながら、私は手元のスマートフォンを眺めた。
『沙羅さん、今日紹介してもらったお店の面接、受かりました! 店長さんも優しそうな人でした。これで来月もプラチナプランの更新できます!』
メッセージの文面を読み上げると、向かいに座る沙羅がクスクスと喉の奥で笑った。
「すごいね、紬。あの子、夜の仕事なんて絶対にできないタイプだったのに。たった三週間で水沈めちゃうなんて、私より才能あるかも」
「別に。マニュアル通りにやっただけだよ。『みゆちゃんは特別だから、特別なお仕事紹介してあげる』って言ったら、勝手に喜んで行ったし」
自分の口から出た言葉の軽薄さに、我ながら驚く。
最初の数回は、みゆと通話するたびに吐き気がしていた。
あんなに純粋に私を信じている子を、借金まみれにして夜の街に沈める。
それは明らかに「犯罪」の手伝いだ。でも、人間は恐ろしいほどすぐに慣れる生き物らしい。
みゆが稼いだ金で『Haven』の利用料が支払われ、その一部が私の「報酬」として沙羅から手渡される。
分厚い札束を手にした瞬間、私の心の中にあったちっぽけな良心は、綺麗に焼け焦げて消滅してしまった。
「あの子が風俗で働こうがどうなろうが、私には関係ない。あの子はあの子で、私に『絶対的な肯定』をもらって幸せなんだから。需要と供給でしょ」
チーズをつまみながら、私は冷たく吐き捨てた。
沙羅は嬉しそうに目を細め、私の頬を優しく撫でる。
「その調子。紬は本当に賢い子だね。もう、あの会社で震えてた頃の紬とは別人みたい」
「……」
その言葉に、少しだけ胸の奥がチクリと痛んだ気がした。
あの会社。
無愛想な先輩。
不味いコンビニのサンドイッチ。
遠い昔のことのように思える。
「あ、そうだ紬。明日の午後、また『面談』お願いしていい?」
「面談? 誰の?」
「新しい子。今日、ベーシックからプレミアムに上がった男の子がいるの。ちょっと依存体質が強そうだから、紬の得意な『共感アプローチ』で一気にプラチナまで引っ張ってほしいな」
沙羅が、新しいターゲットのデータが入ったファイルをテーブルに滑らせた。
「わかった。やっとく」
私は何の感情も交えずにファイルを受け取り、中身を確認する。
年齢、職業、家族構成。
トラウマの有無。
そこにあるのは「人間」ではない。ただの「数字」と「金ヅル」のリストだ。グラスのワインを一気に飲み干す。
アルコールが食道を焼き、胃の腑に落ちていく熱さだけが、私が生きているという実感を与えてくれた。
戻れない。戻りたくもない。この狂った鳥籠の中が、今の私にとっての唯一の【安息の地】なのだから。
*
同じ頃。
都内のWeb制作会社のオフィス。夜の二十一時を回り、大半の社員が帰宅したフロアで、篠原悠人は自席のパソコンのモニターを睨みつけていた。
画面に映っているのは、一ヶ月前に唐突に退職した結城紬の、業務引き継ぎフォルダだ。
何度見返しても、そこに不審な点は何もない。
ただ、彼女の退職の仕方があまりにも不自然だった。
『心身の不調により、本日付で退職させていただきます』
深夜に送られてきた、たった一通のメール。
翌日から電話は一切繋がらず、メッセージアプリもブロックされた。
人事に確認しても、退職手続きはすべて郵送で処理され、本人は一度も会社に顔を出していないという。
「……あいつ、本当にただ病んで辞めただけなのか?」
篠原は無精髭の生えた顎を擦った。
確かに、結城は職場で浮いていた。
人間関係に怯え、いつもビクビクしていた。
でも、だからこそ。あんなに他人の目を気にする臆病な奴が、「メール一通でバックれる」という一番波風の立つ辞め方を選ぶだろうか?ふと、結城が退職する数日前の姿が脳裏をよぎる。
常にワイヤレスイヤホンをして、虚空に向かってブツブツと呟き、時折ひどく気味の悪い笑みを浮かべていた。
『何か、ヤバい宗教とか、事件に巻き込まれてるんじゃないか……?』
篠原はキーボードを叩く手を止め、引き出しから
一冊の手帳を取り出した。
社員の緊急連絡先リスト。
個人情報保護の観点から持ち出しは厳禁だが、人事に掛け合ってなんとか結城の「前のアパートの住所」だけはメモさせてもらっていた。
「……明日、土曜か」
手帳のページを見つめながら、篠原は小さく呟いた。
嫌がる相手に無理やり踏み込むのは、ストーカーと変わらない。
それは分かっている。
でも、あの気味の悪い笑みが、どうしても頭から離れなかった。
「ちょっと、行ってみるか」
篠原の手帳がパタンと閉じられる音が、誰もいないオフィスに響いた。




