【第32話】消えた生活の痕跡
土曜日の午前十一時。
篠原悠人は、手帳のメモを頼りに、世田谷区の古いアパートの前に立っていた。
築三十年近く経っていそうな、外階段の錆びた二階建てアパート。
結城が会社に提出していた住所だ。
二階の角部屋。
ドアの表札入れには、何も入っていない。
「結城。いるか」
インターホンを鳴らす。
反応はない。
何度かノックしてみたが、中から生活音は一切聞こえてこなかった。
ドアノブに手をかける。
当然だが、鍵はかかっていた。
「……やっぱり、もう引っ越した後か」
篠原はため息をつき、階段を降りようとした。
その時、一階の大家の部屋らしい引き戸がガラリと開き、白髪の小柄な老婆が顔を出した。
「あんた、誰だい。二階に何か用?」
「あ、すみません。以前二階に住んでいた結城さんと同じ会社の者なんですけど……彼女、急に退職してしまって。連絡も取れないので、様子を見に来たんです」
大家の老婆は、胡散臭そうな目で篠原のヨレたスーツを上下に舐め回した。
「結城さんなら、先月の終わりに急に出て行ったよ。夜逃げ同然さ」
「夜逃げ?」
「そうだよ。解約の手続きだけ電話でしてきてね。立会いもせずに、鍵は郵便受けに放り込まれてた」
老婆の言葉に、篠原の眉間が険しくなる。
いくらなんでも非常識すぎる。
あの臆病だった結城の行動とは思えない。
「……荷物は? 引っ越し業者は来てましたか?」
「それがね、おかしな話なんだよ」
老婆は少し声を潜め、周囲を気にするように篠原に近づいた。
「業者のトラックなんて一度も来なかった。結城さんがキャリーケースを一つ転がして出て行った後、残った家具とか家電は、後日見知らぬ男たちが来て、全部粗大ゴミとして持って行ったんだよ」
「男たち?」
「真っ黒いツナギを着た、ガタイのいい男たちだよ。挨拶しても無視するし、気持ち悪くてねぇ。業者って感じじゃなかったよ。……結城さん、何か悪い男にでも騙されたんじゃないかい?」
ドクン。
篠原の胸の奥で、嫌な音が鳴った。
キャリーケース一つで退去。
残置物の不自然な処理。
これは、単なる「適応障害による引きこもり」や「夜逃げ」のレベルではない。
まるで、結城紬という人間の過去の生活の痕跡を、意図的に「消去」したかのような手際の良さだ。
「大家さん。その黒いツナギの男たちが乗っていた車、覚えてますか? ナンバーとか」
「ナンバーなんて覚えてないよ。ただ、真っ黒のデカいワンボックスカーだったねぇ。スモークガラスで、中が見えないやつ」
真っ黒のワンボックスカー。
篠原は手帳にその言葉を乱暴に書き殴った。
「ありがとうございました。助かりました」
「あんたも、深入りしない方がいいよ。あの子、最後の方は顔つきがおかしかったからね」
老婆の忠告を背中で聞き流し、篠原はアパートを後にした。
最寄りの駅に向かって歩きながら、頭の中を整理する。
結城は、自発的に姿を消したわけじゃない。
誰かに「消された」か、あるいは「取り込まれた」んだ。
あの真っ黒なワンボックスカーの連中に。
カルト宗教? 闇金? 悪質な詐欺グループ?
どれもピンとこない。
結城は金持ちでもないし、宗教にハマるほど社交的でもなかった。
「……待てよ」
駅の改札前で、篠原はピタリと足を止めた。
一つだけ、思い当たることがある。結城が退職する少し前のことだ。
彼女はいつも、ワイヤレスイヤホンをして虚空と会話していた。
ある日、昼飯に誘った時のこと。彼女は一瞬行きたそうな顔をしたのに、イヤホンの奥からの「何か」を聞いた瞬間、凍りついたように表情を消し、誘いを断ってきた。
あれは、単なる音楽やラジオじゃない。
イヤホンの向こう側で、彼女を遠隔操作して、現実の人間関係から引き離そうとしていた『誰か』がいたんだ。
「スマホ、か……」
篠原は自分のスマートフォンを取り出し、画面を見つめた。
今どきの洗脳は、密室で行われるとは限らない。
スマホ一つあれば、二十四時間、いつでも相手の脳に直接言葉を送り込める。
結城は、何かのアプリか、ネット上のコミュニティで洗脳された可能性が高い。
だが、あの警戒心の強い結城が、自分からそんな怪しいものに手を出すだろうか?
「……誰かの紹介?」
ふと、篠原の脳裏に一人の女性の顔が浮かんだ。
結城と同期入社で、半年前に適応障害を理由に退職した、おとなしい女性社員。
たしか、結城と一番仲が良かったはずだ。
「名前は……桐谷、美咲」
手帳のページを急いでめくる。
同期のネットワークなら、桐谷の今の連絡先を知っている奴がいるかもしれない。
篠原は駅の喧騒の中で、同僚への通話ボタンを押した。
この一本の電話が、自分自身を深い闇の中へ引きずり込む致命的な引き金になることなど、彼はまだ知る由もなかった。




