【第30話】沈黙の抱擁
新宿駅東口から歩いて五分。
雑居ビルの地下にある、薄暗い純喫茶。約束の午後三時。
私は黒いマスクで顔の半分を覆い、ツバの広い帽子を深く被ったまま、一番奥のボックス席に座っていた。
心臓が、肋骨にヒビを入れるんじゃないかと思うくらい激しく鳴っている。
バレないだろうか。
不審者だと思われないだろうか。
テーブルの下で組んだ手は、脂汗でじっとりと濡れていた。
カラン、とドアのベルが鳴る。
入り口の階段を下りてきたのは、小柄な少女だった。
地味なベージュのカーディガン。
手入れの行き届いていないパサついた髪。
キョロキョロと店内を見回すその目は、怯えた小動物のように泳いでいる。
事前のデータにあった、みゆの写真と一致する。
私はゆっくりと右手を挙げた。
みゆと目が合う。
彼女はビクッと肩を震わせた後、小走りで私のテーブルへと近づいてきた。
「あ、あの……沙羅、さん……?」
震える、小さな声。
私は声を出さず、ただゆっくりと頷いた。
そして、あらかじめ用意しておいたスマートフォンをテーブルの上で滑らせ、画面をみゆの方へ向ける。
『ごめんね、こんな格好で。私、顔に火傷の痕があって、外に出るのが怖いの。声も、緊張して上手く出せなくて……チャットでもいいかな?』
画面の文字を読んだみゆは、ハッと息を呑んだ後、急にポロポロと涙をこぼし始めた。
「沙羅さん……っ、沙羅さんだ……会いたかった……っ!」
みゆは私の向かいの席に座るなり、テーブルに突っ伏すようにして泣きじゃくった。
「ごめんなさい、私なんかのために、怖いのに外に出てきてくれて……っ。私、沙羅さんがどんな顔でも、声が出なくても、絶対に見捨てたりしません。だって、沙羅さんは私の唯一の味方だから……!」
鼻水と涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、みゆが私の手を両手で強く握りしめてくる。
――ああ。
なんだ、これ。私の心の中にあった恐怖や緊張が、スゥッと潮が引くように消えていくのを感じた。
チョロい。
あまりにもチョロすぎる。黒いマスクに帽子、一言も喋らない女。
客観的に見れば、ただの不審者だ。誘拐犯か詐欺師にしか見えない。
でも、極限まで孤独を煮詰められ、アプリの甘い言葉で完全に洗脳されたみゆの目には、私が『顔に傷を負った可哀想な天使』に見えているらしい。
「沙羅さん、私、会社辞めました。沙羅さんの言う通りにメール送って、もう行かないって決めました」
みゆが、すがるような目で私を見つめる。
「これからどうやって生きていけばいいか、分からないです。でも、沙羅さんがいれば大丈夫ですよね? お金のことだって、沙羅さんが助けてくれるって……」
私は無言のまま、ゆっくりと頷いた。
そして、スマホの画面に新しい文字を打ち込む。
『大丈夫。私が全部なんとかしてあげる。でも、みゆちゃんも、私のお仕事、手伝ってくれる?』
「……お仕事?」
『うん。みゆちゃんみたいに寂しい思いをしてる女の子を、助けてあげるお仕事。みゆちゃんならできるよ』
文字を読んだみゆの顔が、パッと明るく輝いた。
「やります! 私、沙羅さんのためなら何でもします!」
その返事を聞いて、私は黒いマスクの下で、ひっそりと、そしてひどく醜く笑った。
簡単だ。
美咲が私を売ったように。私がこの子を騙したように。
今度はこの子が、自分の借金を返すために、また別の誰かを地獄へ引きずり込むのだ。
【Haven】という名の、終わらないバケツリレー。
人間の孤独と承認欲求を食い物に増殖する、巨大な悪意のシステム。
その全貌が、ようやく私にも理解できた。
私は立ち上がり、みゆの隣に座って、その細い肩を抱き寄せた。
「沙羅さん……あたたかい……」
みゆが私の胸に顔を埋め、安心しきったように息を吐く。
私はみゆのパサついた髪を優しく撫でながら、ぼんやりと天井のシミを見つめていた。
戻れない。
もう二度と、普通の人間には戻れない。
私は完全に、怪物の側の人間になってしまったのだ。




