【第29話】代役の条件
翌朝。
リビングのソファーで浅い眠りについていた私は、玄関のドアが開く音で目を覚ました。
「……ただいま」
沙羅だった。
数日空けると言っていたのに、たった一晩での帰還。
その姿を見て、私は息を呑んだ。
いつもの隙のないメイクは崩れ、美しい亜麻色の髪もボサボサに乱れている。
何より異様だったのは、彼女が着ていた白いブラウスの袖口に、黒っぽい――血のような染みがべっとりと付着していたことだ。
「沙羅、それ……」
「何も聞かないで」
沙羅は私の言葉を遮り、ヒールを脱ぎ捨てるようにして部屋に上がり込んだ。
フラフラとした足取りでキッチンに向かい、水道の蛇口を捻って、震える手で直接水を飲む。
その後ろ姿は、私が知っている「完璧な親友」でも「冷酷な支配者」でもない。ただの、何かに怯えきった弱い女だった。
「……ノルマ、どうなった」
口の端から水を滴らせたまま、沙羅がこちらをギロリと睨みつける。
私は慌てて、テーブルに置いてあったパソコンの画面を開いた。
「やったよ。みゆちゃん、プラチナプランに移行させた。退職のメールも送らせた」
「……そう。よくやったわね」
沙羅は大きく息を吐き、ドサリとソファーに崩れ落ちた。
少しだけ、強張っていた肩の力が抜けたように見える。
この「プラチナプラン」の獲得が、あの黒いワンボックスカーの連中に対する何らかの言い訳(あるいは延命)になったのだろう。
「でも、沙羅。この後、どうするの」
「どうするって?」
「みゆちゃん、プラチナプランにしたから……『会いたい』って言ってる。私じゃ、声は誤魔化せても、実際に会いに行ったら顔でバレるよ。沙羅が行くしかないんじゃ……」
私がそう言うと、沙羅はゆっくりと顔を上げ、ひどく歪んだ笑みを浮かべた。
「私が行く? バカね」
沙羅は、袖口の黒い染みを指で擦りながら言った。
「私がこんな状態で、外に出られるわけないでしょ」
「え……じゃあ、どうするの」
「あなたが会いに行くのよ」
心臓が、冷たい手で鷲掴みにされた。
「無理だよ! だって、アプリのアイコンになってるシルエットとか、声の印象とか、私じゃ全然……」
「だから、設定を作るのよ」
沙羅はフラフラと立ち上がり、自分の寝室に向かった。
数秒後、彼女が手に持って戻ってきたのは、一枚の「黒いマスク」と、大きな「サングラス」、そしてつばの広い「帽子」だった。
「みゆちゃんには、こう言ってあるの。『私、実は顔に大きな火傷の痕があって、人前に出るのが怖いの。だから、顔を隠して会いに行ってもいい?』って」
ドクン、と。
また、嫌な汗が背中を伝った。最初から、そういう逃げ道(設定)が用意されていたのだ。
「容姿にコンプレックスがある」という弱みを見せることで、相手の同情を引き、さらに依存を深めさせる。
そして同時に、誰が「沙羅」の代役をやってもバレないようにするための、完璧なマニュアル。
「声はどうするの。ボイスチェンジャーなんて、外じゃ使えない……」
「喋らなくていいの。あなたはただ、約束のカフェに行って、彼女の話をウンウンって頷きながら聞いてあげるだけ。『外だと緊張して声が出なくなっちゃうから、スマホのチャットで会話するね』って誤魔化せばいい」
沙羅は私の手を取り、黒いマスクとサングラスを強引に握らせた。
「みゆちゃんは今、極限まで孤独で、誰かの温もりに飢えてる。マスクをして一言も喋らない不審者でも、自分の話を肯定して抱きしめてくれれば、絶対に喜んで縋り付いてくるわ」
人間の心理の底の底まで見透かした、悪魔のような手口。
「行ってきなさい、紬。今日の午後三時、新宿のカフェ」
「……」
「もし逃げたり、ボロを出したりしたら」
沙羅の冷たい指先が、私の首筋をそっとなぞる。
「あなたの裏垢のデータも、実家の住所も、全部『上』の人たちに渡すから。どうなるか、さっきの私の姿を見て分かったでしょ?」
首筋を這う指の冷たさに、私は小さく頷くことしかできなかった。
午後二時。
私は黒いマスクで顔の半分を覆い、深く帽子を被って、真昼の新宿に降り立った。
自分が洗脳し、地獄へ突き落としたばかりの少女に会いに行く。
騙すため。
お金を毟り取るため。
そして、私自身が生き延びるために。




