【第28話】蜜と毒
『今日、また主任に怒られて……私だけ、チームのチャットグループから外されてたんです』
鼻をすする音と時折、過呼吸のように震える息継ぎ。
スピーカーから流れてくるみゆの悲痛な訴えを、私は無表情のまま聞いていた。
パソコンの画面の横に広げたマニュアル。
そこに書かれた『職場の孤立を訴えた場合』のフローチャートを、指先でツーッとなぞる。
「そっか。辛かったね、みゆちゃん」
マイクに向かって囁く。
変換された沙羅のアルトの声は、自分で聞いても鳥肌が立つほど優しく、甘かった。
「みゆちゃんは毎日休まずに会社に行ってるだけで、すごく偉いよ。そんな風に仲間外れにするなんて、本当にひどい人たち」
『っ……うぅ……』
「みゆちゃんのせいじゃない。周りの人間が、みゆちゃんの優しさに甘えてるだけ。……そんな会社、もう行かなくていいよ」
『え……?』
みゆの泣き声が、ピタリと止まる。
マニュアル通りの展開。
ここで一気に、現実社会との繋がり(仕事)を断ち切るための毒を流し込む。
「みゆちゃんを傷つけるだけの場所なんて、意味ないでしょ? 明日、お休みしちゃいなよ。私がずっとお話ししてあげるから」
躊躇いは、もうなかった。
むしろ、私の声一つで、画面の向こうの見知らぬ少女の人生が右へ左へと簡単に傾いていく感覚が、背筋がゾクゾクするほどの快感に変わっていた。
『でも、休んだら……お給料が……』
みゆの声が揺れる。
想定内の抵抗だ。マニュアルの次の項目に目を移す。
「お金のこと? そんなの、どうにでもなるよ」
わざと、少しだけ笑いを含んだ声を作る。
「みゆちゃんには私がいればいいの。ね? 私がなんとかしてあげるから、私だけを信じて」
『沙羅、さん……』
「明日休むって、今すぐ会社にメールしよっか。一緒に文面考えてあげる」
沈黙。
五秒、十秒。
みゆの中で、常識と依存がせめぎ合っているのが手に取るようにわかる。
『……はい。休みます。もう、あの人たちの顔、見たくない』
よし、と。
私は音を立てずにガッツポーズをした。網に掛かった。
完全に私のコントロール下に入った。
『あの……沙羅さん』
メールの送信を済ませたらしいみゆが、ひどく甘えきった声で問いかけてきた。
『私、沙羅さんに……会いたいです。直接会って、お礼が言いたい。私のこと、抱きしめてほしい……』
来た。
第一の関門突破。
ターゲット側からの、対面への要求。
私はニヤリと歪んだ笑みを浮かべ、マニュアルの最後のページをめくった。
「私も、みゆちゃんに会いたいよ。みゆちゃんの髪に触れて、頭を撫でてあげたい」
声に、限界まで熱を帯びさせる。
「でもね、私に会うには、ちょっとだけ『準備』が必要なの。みゆちゃん、アプリの画面見てみて?」
私がキーボードのショートカットキーを押すと、みゆのスマホの画面に、あの禍々しい深紅のポップアップが表示される仕掛けになっていた。
【プラチナプランへのアップグレード】
【月額:50,000円】
『五万、円……』
みゆが絶句する音が聞こえた。
新入社員の手取りからすれば、正気の沙汰ではない金額。
『これ、毎月ですか……? 私、そんなお金…』
戸惑うみゆに、私は畳み掛ける。
「大丈夫だよ、みゆちゃん。お金が足りないなら、私が割のいい副業を紹介してあげる。だから、安心して?」
『でも……』
「みゆちゃんは、私に会いたくないの?」
少しだけ、声を冷たくする。突き放すように。
『あ、会いたいです! 会いたい!』
慌ててすがりついてくるみゆ。
「じゃあ、ボタン押して。……私を信じて」
沈黙。
みゆの荒い呼吸音だけが、部屋に響き続ける。
私はパソコンの画面に表示された『契約状況』のステータスバーを、祈るような気持ちで見つめていた。
押せ。
押せ。
押せ。
カチッ。
画面のステータスが、【ベーシック】から【プラチナ】へと切り替わった。
『……押しました。沙羅さん、これで、会えますか……?』
「うん。ありがとう、みゆちゃん。……楽しみにしててね」
通話を切る。
スピーカーから流れる無機質な電子音。
私は深く息を吐き出し、ソファーに仰向けに倒れ込んだ。
終わった。
五万円の契約を取った。
これで私は、沙羅のノルマを一つ達成した。
天井の白いクロスを見つめながら、私は自分の顔がひどく醜く笑っているのを感じていた。
罪悪感なんて、もうどこにもない。
あるのはただ、誰かの人生をぶち壊してやったという、黒く濁った達成感だけだった。




