【第27話】悪魔の台本
キッチンの大理石風のカウンター。そこに放り出された、分厚い黒の封筒。
触りたくない。
頭の中では警報が鳴りっぱなしだ。
でも、あの女の「裏垢のデータ、全部送るからね」という冷たい声が、私の足首に重い鎖として巻き付いている。
ゆっくりと手を伸ばす。
糊付けされた封筒の口を、爪を立てて乱暴に引き裂いた。
中から滑り出てきたのは、数枚のプリント用紙と、銀色の安っぽいUSBメモリが一つ。プリントの一枚目。
そこには『【Haven】プレミアムプラン移行者向け・トークスクリプト』という、無機質な明朝体のタイトルが印字されていた。二枚目以降をめくる。
視線が文字をなぞるたび、胃袋の底に冷たい泥が沈んでいくような感覚がした。
みゆの性格、抱えている悩み、過去のトラウマ。
それに対する「最適な返答」が、フローチャートのようにびっしりと書かれていたのだ。
『ターゲットが職場の愚痴を言った場合』
⇒【共感】「辛かったね」+【孤立化の誘導】
「みゆちゃんを理解できない会社なんて、もう辞めちゃえば?」
『金銭的な不安を口にした場合』
⇒【肯定】「お金なんてどうにでもなる」+【依存の強化】「私がなんとかしてあげる。私だけを信じて」
心と心の触れ合いなんて、そこには一ミリも存在しない。
相手の弱った部分を的確に見つけ出し、甘い言葉で傷口を広げ、現実から切り離す。ただアプリに依存させるためだけの、ひどく冷酷で、システマチックな洗脳の技術。
あの女は。
いや、このアプリを運営している連中は。
これをマニュアル化して、何百人、何千人という孤独な人間から金を毟り取っている。バサリ、と。
プリントが手から滑り落ち、床に散らばった。吐き気がする。
こんなの、人間のやることじゃない。
でも、やらなきゃ私が終わる。
震える手でUSBメモリを掴む。
沙羅が置いていったノートパソコンの側面に差し込むと、画面に『Haven通話システム(音声変換オン)』という見慣れないウィンドウが立ち上がった。マイクのテストボタン。
唾を飲み込み、「あー」と小さく声を出してみた。
『あー』スピーカーから返ってきた音。
紛れもない、あの女の。沙羅の、金木犀のように甘く優しいアルトの声。
「……うそでしょ」
自分の掠れた声が、私を地獄に突き落とした悪魔の声に変換されている。
その圧倒的な気味の悪さ。
そして、「これなら絶対にバレない」という、自分でも嫌になるほどの歪んだ安心感。
画面の右下、デジタル時計の数字が変わる。
夜の二十三時。
マニュアルに書かれた、みゆとの通話の約束の時間。
ピロンッ。
画面の中央に、みゆからの着信を知らせるポップアップが表示された。
心臓が、肋骨を内側から叩き割るような勢いで鳴り始める。
出なきゃ。出ないと、私が。目をきつく閉じる。マウスを握る右手に力を込め、『通話開始』の緑色のボタンをクリックした。
『あ、あの……沙羅、さんですか?』
スピーカーから流れてきたのは、少し鼻声の、おどおどとした少女の声。
泣いている。
みゆの声は、今にも消え入りそうに頼りない。
口の中がカラカラに渇いていた。
床に落ちたマニュアルの一行目を見る。
『優しく微笑むような声で、相手の存在を全肯定すること』
息を吸い込む。
沙羅になりきって。
「こんばんは、みゆちゃん。……やっと、声が聞けたね」
スピーカーを通って出力されたその声は、自分でもゾッとするほど完璧な「沙羅」だった。
それを聞いたみゆは、画面の向こうで堰を切ったように泣きじゃくり始めた。
『沙羅さん……っ、私、もう、限界で……!』
「大丈夫だよ。私がいるから。みゆちゃんは、何も心配しなくていいんだよ」
口からスラスラと、台本通りの甘い毒がこぼれ落ちていく。
泣いているみゆの姿が、数週間前の自分とピタリと重なった。
私は今、自分と同じ弱者を騙している。
五十万円という大金を毟り取るための罠を、自分の手で張っている。罪悪感で吐きそう。
なのに。
私の口角は、沙羅の甘い声に合わせて、微かに持ち上がっていた。




