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『この安息の地からは退会できません。あなたに代わる「新しい生贄」の心当たりがない限り。』  作者: サカキカズキ


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【第26話】黒い封筒

沙羅が寝室にこもってから、二時間が経った。リビングの掃除を終わらせても、夕飯の支度を始めても、沙羅は出てこない。


時折、ドアの向こうからくぐもった声が聞こえる。


「はい、はい、申し訳ありません」


「来月には確実に」


といった、誰かに頭を下げているような切羽詰まった声だ。

紬はキッチンのカウンターに寄りかかり、自分の親指の爪を苛立たしげに噛んでいた。


『沙羅も……やらされてるの?』


あの時の沙羅の表情が、頭から離れない。


完璧な親友。

冷酷な支配者。


そう思っていた女が、見えない誰かに怯えている。じゃあ、私は一体、誰の奴隷になっているの?


沙羅の?


それとも、沙羅の後ろにいる、顔も知らない『何か』の?



ピリリリリッ。



静寂を切り裂くように、部屋の固定電話が鳴った。


オートロックのインターホンではなく、部屋に備え付けられている電話機だ。


ビクッと肩を震わせる。この三日間、この電話が鳴ったことは一度もなかった。

出た方がいいのか、無視するべきか。


迷っている間に、ガチャリと寝室のドアが開き、沙羅が血相を変えて飛び出してきた。


「出ないで!」


紬を突き飛ばすようにして、沙羅が受話器を取る。


「……はい。はい。……ええ、準備できてます。はい、今すぐに」


わずか十秒ほどの通話。


受話器を置いた沙羅の顔は、ひどく青ざめている。


彼女は無言のままクローゼットを開け、自分のコートを羽織り、玄関に向かう。


「沙羅、どこ行くの?」


「……ちょっと、下まで」


沙羅は振り返らずにドアを開け、足早に出て行った。


残された紬は、静まり返った部屋の中で一人、嫌な汗をかいていた。

下まで、ということはマンションのエントランスか。


誰が来たんだ。宅配業者ならインターホンを鳴らすはず。

わざわざ固定電話にかけてきて、沙羅を呼び出す人間。紬は吸い寄せられるように、ベランダの窓に近づいた。


カーテンの隙間から、十一階の高さから見下ろすマンションの裏手。

エントランスに通じる車寄せのあたりに、一台の黒いワンボックスカーが停まっていた。車の横に、沙羅が立っている。


その後ろ姿は、いつもの堂々としたものではなく、ひどく縮こまって見えた。車の窓が少しだけ開き、中から腕が伸びる。

何かを渡している。

黒い、封筒のようなもの。

沙羅はそれを両手で受け取り、何度も何度も深く頭を下げていた。


「……っ」


慌ててカーテンを閉める。

見ちゃいけないものを見た。本能がそう告げていた。


ここは鳥籠じゃない。


巨大な肉食獣の檻の、ほんの隅っこだ。五分後、玄関のドアが開く音がした。


紬は急いでキッチンに戻り、洗い物をしているふりをした。


「……紬」


背後から呼ばれ、振り向く。

そこには、さっきの怯えた顔を完全に隠し、いつもの「冷酷な支配者」の顔を作った沙羅が立っていた。


その手には、先ほど車から受け取っていた黒い封筒が握られている。


「私、急用ができたから、数日ここ空けるね」


「数日?」


「うん。……その間、あなたに仕事をお願いするから」


沙羅は、その黒い封筒をポンッとキッチンのカウンターに放り投げた。


「私の代わりに、みゆちゃんの相手をして。ログインのアカウントと、マニュアルはここに置いておくから」


「え……? 私が、みゆちゃんの相手を?」


沙羅の言葉の意味が理解できず、紬は封筒と沙羅の顔を交互に見比べた。


「みゆちゃん、もう『プレミアムプラン』まで課金してるでしょ。だから今夜から、通話で対応しなきゃいけないの。私の代わりに、あなたが『完璧な親友』を演じて」


「む、無理だよ! 声が違うじゃない!」


「大丈夫。アプリの通話機能に、私の声に変換するボイスチェンジャーが組み込んであるから。マニュアル通りに喋れば、絶対にバレない」


沙羅は早口で捲し立て、自分のキャリーケースに荷物を詰め始めた。


「ノルマ、達成できなかったらどうなるか……分かってるよね? あなたのお母さんのスマホに、あなたの裏垢のデータ、全部送るからね」


残されたのは、キッチンに転がる黒い封筒と、結城紬だけ。


封筒の中には、みゆを言葉巧みに追い詰め、プラチナプラン(五万円)まで誘導するための、おぞましい『洗脳マニュアル』が入っている。


私が、沙羅になる。


誰かを洗脳して、金を毟り取る、怪物の側に回る。逃げ場なんて、最初からどこにもなかった。



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