【第24話】安全圏の奴隷
キッチンのシンクをスポンジで擦る音が、静かな部屋に響く。
「紬。コーヒー、氷入れすぎ」
リビングのソファーから飛んできた不機嫌な声に、結城紬はビクッと肩を跳ねさせ、持っていたスポンジを放り出した。
「ごめ、ごめんなさい。すぐ淹れ直す」
「早くして。次、通話入ってるから」
アプリの契約が切れた翌日から、沙羅の態度は一変した。
「紬ちゃん」
という甘い呼び方はなくなり、労いの言葉も一切かけられない。
月額五万円。
あの異常なまでの優しさと肯定は、単にその金額に見合った「完璧な親友」を演じるための、ビジネスの対価でしかなかったのだ。
客ではなくなった人間に、あの金木犀の香るような甘い言葉をかける理由など、どこにもない。
今の紬は、沙羅の身の回りの世話をする、ただの無給の家政婦だ。
新しいグラスに氷を少なめに入れ、コーヒーを注ぐ。
背後から、沙羅がスマートフォンの通話ボタンを押す音が聞こえた。
「あ、みゆちゃん? ううん、全然忙しくないよ。どうしたの、少し息づかいが重いみたい」
コーヒーメーカーの前に立ち尽くしたまま、紬はその声を聞いていた。
つい数日前まで私に向けられていたのと同じ、相手のすべてを包み込むような、優しいアルトの声。
「そっか、辛かったね。でも、みゆちゃんはいつも夜遅くまで頑張ってるじゃない。自分を責めないで」
――私はみゆちゃんがどれだけ努力してるか、ちゃんと知ってるから。
沙羅の口から紡がれる、聞き覚えのある定型句。
それを聞いて、紬の口角が自然と持ち上がった。
馬鹿な子。
それはただのマニュアル。五万円のプラチナプランに引きずり込むための、洗脳のプロセスなのに。
みゆは今頃、あの狭いアパートでスマホを握りしめ、ボロボロ泣きながら沙羅の声に縋り付いているのだろうか。
数日前まで自分が同じように泣き喚いていたことなど、すっかり棚に上げていた。
騙される側にいる時はあんなに恐ろしかったのに、騙す側(こちら側)に回った途端、アプリの向こうで踊らされている人間のことが、ひどく滑稽で、哀れなものに思えた。
「……紬。何笑ってんの」
地を這うような低い声で、現実に引き戻される。
振り返ると、沙羅がスマホのマイク部分を手で塞ぎ、氷のような目で紬を睨みつけていた。
「あ、ごめん。なんでもない」
「コーヒー、まだ?」
「うん、できた。いま持っていくね」
紬は慌ててグラスを拭き、小走りでソファーへ向かう。
家も仕事もない。
外に出れば多額の借金が待っている。
でも、ここなら。這いつくばって床を磨き、こうして冷たい目で見下ろされていれば、とりあえず生きていくことはできる。
飢えることも、人間関係の摩擦に怯えることもない。グラスの表面についた水滴が、紬の指を濡らした。
「はい、沙羅。……どうぞ」
沙羅は紬の顔を見ようともせず、無言でグラスを受け取った。




