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『この安息の地からは退会できません。あなたに代わる「新しい生贄」の心当たりがない限り。』  作者: サカキカズキ


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【第23話】自由の対価

スマホの画面を見つめすぎて、目が乾いて痛い。

瞬きをするのも惜しかった。みゆに招待URLを送ってから、およそ十分。


隣でコーヒーを啜る沙羅の衣擦れの音だけが、やけに大きく部屋に響いている。


『ポンッ』


無機質な通知音が鳴った。

画面の上部から滑り降りてきたポップアップの文字列を、眼球に焼き付けるように目で追う。


【新規利用者の本契約ベーシックプランが確認されました】

【譲渡手続きが完了しました。あなたの退会申請は受理されました】


「あ……」


声が裏返った。


震える指でホーム画面に戻る。

さっきまで、どれだけ長押ししても消えなかったネイビーとアンバーのグラデーションのアイコンが。


『Haven』のアプリが、跡形もなく消え去っていた。


「消えた……。うそ、ほんとに、消えた……っ」


顔面がぐしゃぐしゃに歪むのが分かった。

笑っているのか泣いているのか、自分でも分からない。


ただ、喉の奥からヒュー、ヒューと変な呼吸音が漏れた。


やった。助かった。


あの子が五千円払ってくれたおかげで、私は助かったんだ。


私の恥ずかしい音声も、裏垢のデータも、もう誰にもばら撒かれない。


「よかったね、紬ちゃん」


沙羅が、空になったマグカップをテーブルにコトリと置いた。


「これで契約は解除。紬ちゃんは完全に自由だよ」


その言葉を聞いて、紬は弾かれたように立ち上がった。

部屋の隅に置きっぱなしになっていた自分のキャリーケースに駆け寄り、乱暴に取っ手を引き出す。


自由だ。

ここから出られる。


もう、この女の顔色を窺って、甘い匂いに吐き気を堪えながら暮らさなくていい。


「……じゃあ、私、行くから」


キャリーケースを引きずり、玄関に向かう。

沙羅は止めなかった。

ソファーに座ったまま、頬杖をついて紬の背中をじっと見つめている。


「どこに行くの?」


玄関のドアノブに手をかけた紬の背中に、沙羅の平坦な声が投げかけられた。


「どこって……実家とか、ネカフェとか、とりあえず……」


「お金、あるんだっけ」


ドアノブを掴む手に、じっとりと嫌な汗が滲んだ。


「紬ちゃん、先週会社辞めたよね。アパートも解約したし。……来週、私とお揃いで買ったバッグと化粧品のカード引き落とし、十万超えてるけど。どうやって払うの?」


「それは……日払いのバイトとか、親に、借りて……」


「親に? ずっと疎遠だったのに? 仕事も家もなくて、借金だけ作った娘が急に帰ってきて、お金貸してって言われて、お母さんなんて言うかな」


沙羅の言葉は、怒っているわけでも、脅しているわけでもなかった。

ただ単に、そこにある事実を並べているだけ。


「アプリの契約は終わったよ。私はもう、紬ちゃんを縛ってない」


沙羅が立ち上がり、ゆっくりと玄関の方へ歩いてくる。


「ドアを開けて、外に出ていいんだよ。でも、外の世界に、紬ちゃんの居場所なんて一つも残ってないけどね」


ガチャリ、と。


紬の震える手が、ドアの鍵を開けた。

少しだけ開いた隙間から、生温かい都会の夜風が吹き込んでくる。

外に出れば、野垂れ死ぬ。


誰からも助けてもらえず、借金だけを抱えて、孤独に潰されて死ぬ。


沙羅が、背後から紬のキャリーケースの取っ手をそっと掴んだ。


「無理しなくていいんだよ。紬ちゃんには、私のお世話をしてくれる『家政婦』として、ここに住み込みで働く権利をあげる」


沙羅の顔が近づく。


「月額五万円、払わなくていい。私が紬ちゃんを飼ってあげる」

紬は開えかけたドアから手を離し、ゆっくりと、その重い鉄の扉を閉めた。


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