【第21話】蜘蛛の糸
沙羅のマンションの、白く無機質なリビング。
深夜零時を回った薄暗い部屋の中で、結城紬はソファーに深く沈み込み、スマートフォンの青白い光に顔を照らされていた。
画面に映っているのは、SNSの検索結果だ。
『#寂しい』『#消えたい』『#誰か話そ』。
数時間前までなら、同情や共感を持って見ていたはずの無数のSOS。
しかし今の紬の目に映るそれらは、単なる「品定め」の対象でしかなかった。
「……この子は、ダメ」
紬は無表情のまま、あるアカウントのプロフィールを一瞥して弾いた。
病んだ投稿をしているが、過去のタイムラインを遡ると、高校時代の友人らしき人物とやり取りをしている形跡がある。
いざとなれば現実の人間関係に逃げ込める人間は、沙羅の鳥籠には定着しない。
私が探しているのは、もっと深く、暗く、完全に孤立している人間だ。
誰も助けてくれないと絶望しながら、それでも誰かに見つけてほしくて、ネットの海に空虚な言葉を垂れ流し続けている……かつての自分のような人間。
「紬ちゃん、すごく真剣だね」
背後から、沙羅がそっと肩に顎を乗せてきた。
金木犀の甘い香りが、鼻腔をくすぐる。
「……ねえ、沙羅。この子はどうかな」
紬が指を止めたのは、『@miyu_04』という鍵のついていないアカウントだった。
アイコンは、フリー素材の風景写真。
フォロワーはわずか十数人。プロフィール欄には『都内/社会人一年目/疲れた』とだけ書かれている。
最新の投稿は、一時間前のものだった。
『今日も職場のランチで置いていかれた。私から話しかけないと、誰も私に気づかない。透明人間みたい。誰でもいいから、私のことだけを見て、全肯定してほしい』
その痛々しいほどに肥大化した承認欲求の叫びに、リプライや「いいね」は一つもついていない。
「ああ、いいんじゃないかな。すごく飢えてる匂いがする」
沙羅が紬の耳元でクスクスと笑う。
「ねえ、紬ちゃん。この子、可哀想だよね。誰も味方がいなくて。……私たちが、救ってあげよっか?」
――救ってあげる。
その言葉を聞いて、紬の胸の奥にあった微かな罪悪感が、綺麗に溶けて消え去った。
そうだ。私はこの子を騙すんじゃない。救済するんだ。
現実の人間関係で傷ついているこの子に、絶対に裏切らない「完璧な親友(沙羅)」を月額五千円で与えてあげるのだ。
私が味わったあの極上の安らぎを、この子にも分けてあげるだけ。
結果的に私が自由になり、この子が私に代わって「解約不可の鳥籠」に閉じ込められるとしても。
それはこの子が自ら選んだ幸福なのだから、私が咎められる筋合いはない。
美咲もきっと、こうやって自分に言い訳をして、私にアプリを送りつけてきたのだろう。
人間の心は、自分が助かるためなら、どこまでも都合よく事実を捻じ曲げることができる。
「……うん。この子にする」
紬はゆっくりと息を吸い込み、@miyu_04のDM画面を開いた。
いきなりアプリの招待URLを送りつけるような、美咲と同じバカな真似はしない。
もっと巧妙に、確実に相手の心を絡め取るのだ。
『はじめまして。投稿、見させてもらいました。
私も職場で同じように透明人間扱いされていて、毎日すごく苦しいです。
みゆさんの投稿を見て、私と同じ気持ちの人がいるんだって、少しだけ救われました。
もしよかったら、少しだけお話ししませんか?』
嘘八百の、しかし相手の最も欲しがっているであろう「共感」の言葉を丁寧に並べ立てる。
相手が警戒しないよう、何度か推敲し、完璧な文章を作り上げた。「送信」ボタンの上に、親指を乗せる。
これを押せば、もう完全に後戻りはできない。私自身が、他者を地獄へ引きずり込む悪魔になる。一瞬だけ、脳裏に篠原の不器用な顔がよぎった。
だが、それを振り払うように、美咲のあの残酷な笑顔が上書きされる。
――私も、幸せにならなきゃいけない。
「……えいっ」
小さく声を漏らし、紬は送信ボタンをタップした。
『シュッ』という小気味良い音と共に、偽りの共感メッセージが、見知らぬ少女の元へと飛んでいく。
数分間の、張り詰めたような沈黙。
やがて、画面の端に小さく『既読』の文字がついた。
『ポンッ』
そして、メッセージの受信音が鳴る。
『……はじめまして。DMありがとうございます。すごく、嬉しいです』
網にかかった獲物の震えるような返信を見た瞬間。
結城紬の唇の端が、三日月のように、ゆっくりと、そしてひどく醜く吊り上がった。




