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『この安息の地からは退会できません。あなたに代わる「新しい生贄」の心当たりがない限り。』  作者: サカキカズキ


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【第19話】幸福な裏切り者

沙羅に連れられて辿り着いたのは、世田谷区にある閑静な高級住宅街だった。


綺麗に手入れされた植込みのある、瀟洒な低層マンション。

そのエントランスの前に立ち、結城紬はゴクリと固い唾を飲み込んだ。


「ここが、美咲ちゃんの今の家。旦那さんと二人暮らしみたいだね」


隣に立つ沙羅が、楽しそうにスマートフォンを操作しながら言う。

紬は深く息を吸い込み、オートロックのインターホンで部屋番号を押した。


「……はい、どちら様ですか」


スピーカー越しに聞こえてきた、弾むような明るい声。

それだけで、紬の胃袋がどす黒い怒りで煮えくり返りそうになった。


「桐谷さん。……私です、結城です」


モニター越しの沈黙。


十秒ほどの長い空白の後、オートロックが解除される音が響いた。


エレベーターで上がり、指定された部屋の前に立つ。

ゆっくりとドアが開いた。


「紬、ちゃん……?」


ドアの隙間から顔を覗かせた桐谷美咲は、かつて職場で見ていた地味で暗い印象とは別人のようだった。


肌は血色良くツヤがあり、髪も綺麗に手入れされている。

ふんわりとした上質なルームウェアを着た彼女の奥、玄関には男性物の革靴が並んでいた。対する紬の姿は、まるで幽鬼のようだった。


沙羅による昼夜を問わない監視でまともに眠れず、目の下には濃い隈が張り付いている。

服も、急いで家を出てきた時のシワだらけのものだ。


「どうして、ここが……それに、その後ろの人」


美咲の視線が、紬の後ろで微笑む沙羅を捉え、ヒッと小さく息を呑む。


彼女もまた、かつて沙羅の顔を見て、その声に支配されていたのだ。


紬は、ドアを閉めようとする美咲の腕を渾身の力で掴んだ。


「待ってよ。話、聞かせてよ」


「離して……! 主人が、もうすぐ帰ってくるの……!」


「あなたが私に送ってきた、あの『Haven』っていうアプリ! 退会条件って、何なの!? なんで私を送ったの!?」


紬の悲痛な叫びが、静かな廊下に響き渡る。


美咲は観念したように息を吐き、周囲の目を気にするように紬たちを玄関の中へと招き入れた。


綺麗に片付いたリビングの入り口。日当たりの良い窓辺。


そこには、アプリの呪縛から逃れ、新しい人生を手に入れた美咲の「完璧な幸福」があった。


「……ごめんなさい。でも、ああするしかなかったの」


美咲は震える手で自身の腕を抱きしめながら、ポツリとこぼした。


「私も、沙羅に依存して、すべてを握られて、身動きが取れなくなった。退会しようとしたら、婚約してた今の夫の会社に、私の昔のリスカ写真や、借金の履歴をばら撒くって脅されて……」


「だからって、どうして私を身代わりにしたの!?」


「身代わりを立てないと、絶対に逃がしてくれないからよ!」


美咲が泣き叫ぶ。

被害者ぶるその態度に、紬の中で何かがブツリと音を立てて切れた。


「他の誰でもよかったじゃない! どうして、私だったの!?」


その問いに対し、美咲はビクッと肩を揺らしたが、やがてゆっくりと顔を上げた。

涙に濡れたその瞳の奥には、さっきまでの怯えとは違う、ひどく冷酷で、残酷な光が宿っていた。


「……紬ちゃんなら、痛みが分かると思ったからよ」


「どういう、意味」


「私、知ってるのよ。紬ちゃんが学生時代に、いじめられてた親友を見捨てて、自分が助かるために彼女の秘密をいじめっ子グループに売ったこと。……飲み会の時、酔っ払って自分で話してたじゃない」


心臓が、ドクン、と嫌な音を立てた。


全身の血液が急速に冷えていく。


「紬ちゃんなら、自分が助かるために人を売る気持ち、分かるでしょ? 私だって、自分の人生を守りたかった。ただそれだけよ」


自己正当化の極みだった。

過去の罪を掘り起こし、「お前も同じ穴の狢だ」と突きつけてくる人間の、底知れぬ悪意。


「あ……ああ……」


紬は言葉を失い、その場にへたり込んだ。

幽霊なんかよりも、怪物なんかよりも。自分が助かるためなら他人の人生を平気で踏み躙れる「人間」こそが、一番恐ろしい。


「素晴らしいバトンパスだったよね、美咲ちゃん」


背後から、沙羅が楽しそうに拍手をした。


その無邪気な音が、絶望の底に突き落とされた紬の耳に、いつまでも残酷に響き続けていた。


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