第9話 煙をくわえた人形が、敵を暴く
フローリア暦二一四年 十月十二日
笑っていた。
貼りつけたのではなかった。頬が、勝手にゆるんだ。
煙を「得体の知れない草」と呼び、禁じ、部下を縛り上げた男が。テントの隅に、こっそり酒瓶を隠している。
この人も、同じなんじゃないか。
眠るために。頭に入り込んでくるものを、少しでも遠ざけるために。手放せない何かを、隅に隠して生きている。
上官の視線が、僕の目線を辿った。木箱の陰の瓶に行き着いて、止まる。
太い眉が、ぴくりと動いた。
「……何がおかしい」
あの塹壕で、ニコルたちに向けられたのと同じ言葉だった。低く、静かで、怒鳴り声よりずっと重い。
僕は、答えなかった。答えるかわりに、もう一度だけ、瓶を見た。
上官の顎に、ぐっと力がこもる。
何かを言いかけて、口が開いた。
その瞬間、夜が裂けた。
轟音が、テントを揺らす。
蝋燭が倒れ、地図の上を転がって消える。暗闇の中で、土の雨がばらばらと布を叩く。
上官は跳ねるように立ち上がり、テントの外へ出た。杭に縛られたニコルとロドリゴの縄を、腰の短剣で一息に断ち切る。
「持ち場へ戻れ!」
二人が駆け出していく。
上官は、振り返りざまに僕の襟首をつかむ。
「お前は来い」
息がかかるほどの距離で、上官は低く言った。
「お前を見つけた夜に、砲撃が来た。偶然だと思うか」
答えようがなかった。間が悪すぎる。疑われて当然だった。
引きずられるように、塹壕を走る。砲弾が落ちるたびに、地面が跳ね、耳の奥がきんと鳴った。
前線の壁際に、兵士たちが張りついている。
震えている者。壁にしがみついたまま、動けない者。
その中で、何人かが、背中を丸めて手を口元へ運んでいた。両手で火を覆い、短く吸って、吐く。
そして、銃を構えて、壁の上へ身を乗り出していった。
ロドリゴもいた。震える指で一本をくわえ、一口だけ吸い込む。吐いた煙が砲火に照らされて、すぐに夜へ溶けた。
次の瞬間には、ロドリゴの指は、もう震えていなかった。
僕の襟首をつかんだまま、上官は、それを見ていた。
砲撃が、ようやく途切れた。
かわりに、乾いた銃声が闇のあちこちから響きはじめる。壁の上に頭を出した兵士が、一人、また一人と崩れ落ちた。敵の狙撃手が、どこかに潜んでいる。
「どこから撃ってきてんだよ……!」
ニコルが、銃を握りしめたまま壁に張りついていた。泥だらけの顔が、悔しそうに歪んでいる。
その顔が、ふいに止まった。
何かを思いついた顔だった。
ニコルは銃を置き、泥を蹴って、こちらへ駆けてきた。
「上官! ジャンの木箱、貸してください!」
「……何だと」
「煙が居場所を教えるんなら、教えてやりゃいいんです!」
息を切らしながら、ニコルは早口でまくし立てた。土嚢でも、木切れでも、なんでもいい。人の形にして兜をかぶせ、タバコをくわえさせて火をつける。敵がそれを狙って撃ってくれば、その発砲の光で、向こうの居場所が分かる。
上官は、しばらく黙っていた。
それから、僕の襟首をつかんでいた手を離し、取り上げていた木箱を、ニコルに放った。
「やれ」
「ちょ、ちょっと待ってください〜! それ上物なんですよぉ! ぶっ飛ばすのはもったいないですって〜!」
思わず叫んだ僕を、上官がじろりと睨んだ。ニコルは聞こえないふりをして、もう木箱を抱えて走りだしていた。
土嚢を積み、折れた杭を腕にして、古い兜をかぶせる。その口元に、火のついたタバコを一本。
闇の中に、小さな橙色の光が、いくつも灯った。
ほどなくして、向こうの闇が瞬いた。一つ、二つ。偽物の兵士の兜が、甲高い音を立てて弾け飛ぶ。
「そこだ!」
ロドリゴの銃が、光った場所へ火を噴いた。続けて、何丁もの銃声が重なる。
やがて、向こうの闇は、二度と瞬かなくなった。
静かになった塹壕で、土嚢の人形が、まだ煙をくゆらせていた。
僕のタバコだった。
心を軽くするために作ったものが、今夜は、誰かを撃つための餌になった。
上官は、その煙を見つめたまま、長いこと黙り込んでいた。
次回「『お前、本当は笑ってないだろ』」 本日20時10分更新です。




