第8話 上官のテントに隠された瓶
フローリア暦二一四年 十月十二日
トマの名前を手帳に残したまま、僕はあの区画に通い続けた。
行くのをやめる理由は、いくらでもあった。禁令は解けていない。見つかれば、ただでは済まない。それでも、行かない理由のほうが、どうしても見つからなかった。
息が吐けない夜を、あそこにいる連中も過ごしている。それを知っていて、自分だけ廃屋で煙を吐いていられるほど、僕は器用じゃなかった。
それに、気になることがあった。
ロドリゴだ。
トマの夜から、あの人は変わった。前は一晩に一本か二本、黙って吸って、黙って持ち場へ戻っていった。それが今は、三本、四本と続けて火をつける。吸い終わる前から、次の一本を指で探している。
吸っていない間、その指先が、かすかに震えているのを見た。
僕は、その震えを知っている。前の世界で、最後の一本を切らした夜の、自分の指と同じだった。
分かっていて、僕は木箱を開ける。求められれば、渡す。それが、僕の商売だった。
その夜も、土嚢の陰で木箱を開けた。
ニコルが見張りの隙を確かめてきて、少し遅れてロドリゴがやってくる。いつもの顔ぶれ。
ロドリゴが隣に腰を下ろしたとき、ふと気づいた。
匂いが、濃い。
外套にも、指先にも、髪にまで、煙の匂いが染みついている。前の世界なら、喫煙所に何時間もいた人の匂いだ。
ロドリゴが、一本目に火をつける前に、乾いた咳を一つした。
「……吸いすぎですよぉ」
冗談めかして言うと、ロドリゴは何も答えなかった。
そのときだった。
「動くな」
低い声が、背後から落ちてきた。
振り返るより先に、分かった。あの声だ。ニコルが、隣で息を呑む音。
上官が、闇の中に立っている。灯りも持たずに。
「どうして、ここが……」
ニコルが掠れた声で言う。上官は、ニコルを見なかった。その視線は、まっすぐロドリゴに向いていた。
「……匂いだ」
それだけだった。
火薬でも、泥でもない、甘い匂い。毎晩それをまとって持ち場に戻ってくる男がいれば、辿るのは難しくない。
ロドリゴが、ゆっくりと目を伏せた。
三人まとめて、縄をかけられた。
上官に引き立てられて塹壕を歩くうちに、騒ぎに気づいた兵士たちが、あちこちの寝床から顔を出した。暗がりの中で、いくつもの目がこちらを見ている。
誰かが、小さく言った。
「臆病者の次は、間者かよ」
ニコルの肩が、びくりと揺れた。
「……トマは、臆病者じゃねえ」
押し殺した声。それから、堰を切ったように叫んだ。
「トマは臆病者なんかじゃねえ! ジャンも敵じゃねえ! ただの煙屋だ!」
「黙れ」
上官の一言で、塹壕が静まり返った。ニコルは唇を噛んで、それきり何も言わなかった。縄をかけられた手が、白くなるほど握りしめられている。
ロドリゴは、最後まで黙っていた。ただ一度だけ、トマが死んだあたりの壁に、ちらりと目をやった。
「軍規に背いた者には、罰を与える」
歩きながら、上官が言った。
「間者の疑いがある者には、それ以上の罰をだ」
それ以上の罰。その意味は、聞かなくても分かった。
不思議と、怖くはなかった。
ニコルとロドリゴは、テントの外の杭に縛られた。僕だけが、中へ押し込まれた。
狭いテント。机の上には、手書きの地図と、短くなった蝋燭。泥の匂いと、湿った布の匂いがこもっている。
上官は机の向こうに腰を下ろし、黙って僕を見た。
何も聞かない。名前も、どこから来たのかも、何を企んでいるのかも。ただ、見ている。値踏みするようでもなく、責めるようでもなく、ただ、じっと。
沈黙が、泥のように重く溜まっていく。
僕は、いつものように笑おうとした。
どうも〜、と。人の前に立てば、能面みたいに勝手に貼りつくはずの、あの笑顔を。
頬が、うまく動かなかった。
上官の目が、それを見ている。
僕は、その視線から逃げるように、テントの隅に目をやった。
木箱の陰に、瓶が二本、隠すように置かれている。
一本は空。もう一本は、まだ半分ほど琥珀色の液体が残っている。
蝋燭の火を受けて、瓶の口が、鈍く光った。
次回「煙をくわえた人形が、敵を暴く」 明日19時10分更新です。
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