第7話 線を引けない名前
フローリア暦二一四年 十月十一日
禁令が出てから、二週間ほど経っていた。
あれから何度か、夜の闇に紛れてあの区画に通っている。ニコルが見張りの隙を教えてくれて、僕は土嚢の陰で木箱を開ける。それが、いつの間にか決まりごとになっていた。
ある夜、土嚢の陰に集まった連中から、少し離れて座っている奴がいた。
トマだった。
「トマさんも、どうです?」
木箱を開けて差し出すと、トマは困ったように笑って、首を横に振った。
「上官に、やめろって言われたんで」
「……真面目ですねぇ」
「下手なんすよ。器用に誤魔化すのが」
トマは、ほかの連中が吐く煙を、少しだけ羨ましそうに眺めていた。それから、ふと思いついたように口をすぼめて、ふうっと息を吐いた。
煙はない。それでも、口の形だけで、きれいな輪を作ってみせた。
「戦争が終わったら、また吸います。そのときは、ジャンさんより上手い輪っか、見せますよ」
「楽しみにしときますねぇ」
そう言って笑い合った夜から、たぶん、十日も経っていなかった。
その夜、曲がり角の先で待っていたニコルは、いつものように「ジャン!」とは呼ばなかった。
「……ジャン」
小さな声。泥だらけの顔が、妙に白く見える。
「どうしました〜? 元気ないですねぇ」
口元だけが、勝手に笑う。ニコルは、それに笑い返さなかった。
「トマが、死んだ」
三日前の夜だったという。
砲撃が、朝から止まなかった。崩れた壁を直せと言われて、トマは自分の打った杭を、一人で打ち直していた。下手だって、上官に言われた杭を。
「誰も頼んでないのにさ。あいつ、そういう奴だから」
ニコルの声が、少し笑った。すぐに、崩れた。
杭を打つ音。壁から砂が落ちる音。遠くで鳴り続ける砲撃。
そのどれが、どれだったのか。トマには、もう分からなくなっていたのかもしれない。
突然、叫び声が上がる。トマが、壁をよじ登っている。塹壕の外へ、出ようとしている。
「ロドリゴさんが、足をつかんだんだ。引きずり下ろそうとして。でも、トマ、すごい力で暴れて……」
乾いた音が、一つ。
ロドリゴの手の中で、トマの体から力が抜けた。
「あいつ、あの日から一本も吸ってなかったんだ。言われたとおりに。ずっと、我慢してた」
ニコルは、そこで言葉を切った。
続きは、言わなかった。言えなかったのかもしれない。
「みんな、言ってる。あいつは臆病者だったって。怖くて逃げ出そうとした、腰抜けだって」
ニコルの拳が、泥の中で握りしめられた。
「家にも、そう知らせが行くんだってさ。……あいつ、一番真面目だったのに」
パニック発作だ、と思った。
前の世界なら、そう呼ばれていた。音や気配が引き金になって、頭の中の恐怖が一気に溢れ出し、体が勝手に逃げようとする。戦場から帰った後も、何年もそれに苦しむ人がいることを、僕は知っていた。
この世界には、きっとまだ名前すらない。だから、臆病者と呼ばれて終わる。
けれど僕は、名前があっても、どうにもならないことも知っている。病院で名前をつけてもらっても、薬をもらっても、頭に入り込んでくるものは消えなかった。
吸っていれば、違ったのか。
僕にも、分からない。誰にも、分かるはずがない。
ロドリゴは、あの夜から、吸う本数が増えたという。
廃屋に戻って、手帳を開く。
ページをめくる手が、途中で止まった。
――トマ。初めての一本で、煙の輪を浮かべた。上手い。
その下に、何日か前に書き足した一行がある。
――禁令のあと、一本も吸わなくなった。戦争が終わったら、また吸うと言った。
ペンを持ったまま、しばらく動けなかった。
死んだ者の名前には線を引く。前線の名簿は、そうやって片づけるのだと聞いた。
でも、整備の記録は消さないものだ。直したものも、渡したものも、ずっと残し続ける。いつ何が起きても、遡って確かめられるように。
あの日のハンドルの記録も、今も、僕の中に残っている。
僕は、その名前に、線を引けなかった。
次回「上官のテントに隠された瓶」 本日21時10分更新です。




