第6話 「なんで三回も確かめるんだ?」
フローリア暦二一四年 十月一日
夜明け前、空がまだ灰色にもなりきらないうちに、俺は目を覚ました。
上官が起きる前に、ジャンを区画から出さなきゃいけない。
ほとんど眠れなかった。上官に見つかったらどうなるか、それを考えるたびに目が冴えた。
夜中に一度、寝床から顔を上げたとき、壁際に小さな火が二つ並んでいた。手で覆われた、橙色の点。一つはジャンで、もう一つは、たぶんロドリゴさん。
二人とも、何も話していない。ただ、交互に小さな光が灯っては、消える。
あのロドリゴさんが、誰かと並んで吸っているのを、俺は初めて見た。
ジャンは、もう起きていた。あの乗り物の前にしゃがみ込んで、何かをしている。
荷台の木箱の横から、布に包んだ鉄の道具を取り出す。先が口を開けたような、見たことのない形の道具だ。それを輪の真ん中の金具にかませて、ぐっと力を込める。前の輪。後ろの輪。一つずつ、確かめるように。
それから、握りの部分。道具で締め直したあと、ジャンは前の輪を両脚で挟み込んだ。握りを両手でつかんで、左右にぐっ、ぐっと、体重をかけるようにひねる。
動かない。それを確かめて、ようやく手を離した。
「なあ、ジャン。それ、俺にも作ってくれよ」
「えぇ〜、これ、一点物なんですよぉ」
「じゃあ、乗せてくれるだけでいいから」
「だめでーす。壊されたら困るので」
笑ってかわされる。でも、俺はしつこい。いいだろ、ちょっとだけ、一回だけ。食い下がるたびに、ジャンは「考えときますねぇ」と、間延びした声で受け流した。
「なあ、真面目な話さ」
俺は、乗り物の輪っかを指でなぞった。
「これがあったら、伝令に回してもらえるかもしれないんだ。伝令は、手当てが少し多い」
ジャンの手が、ほんの少しだけ止まった気がした。
「村に、弟と妹が三人いるんだ。母ちゃん一人じゃ、食わせていけねえ。俺の手当てが頼りなんだよ」
言ってから、少し恥ずかしくなった。こんなこと、塹壕の連中にも話したことがない。
「それに、これがあったら、戦争が終わったとき、村まですぐ帰れるだろ」
ジャンは、しばらく黙っていた。
「……ニコルさんは、帰る場所があるんですねぇ」
「ジャンは? どこの生まれなんだよ」
「ずーっと遠くですよぉ。歩いても、走っても、たぶん帰れないくらい」
冗談みたいな言い方。俺は笑って、それ以上は聞かなかった。なんとなく、聞いちゃいけない気がした。
荷台に木箱を括りつけ終えると、ジャンはまたしゃがみ込んだ。前の輪を脚で挟んで、握りをつかんで、ぐっ、ぐっ。
そして、いざ乗ろうとする直前。もう一度。
「……なんで三回もやるんだ? さっきもやったじゃん」
ジャンの手が、一瞬止まった。
「……癖なんですよぉ」
いつもの間延びした声で、いつもの顔で笑った。そのはずだった。
なのに、ほんの一瞬。笑顔の真ん中が、ぽっかり欠けて見えた。口は笑っているのに、目だけが、どこにもいなかった。
何か言おうとした俺の顔に、ふうっと煙が吹きかけられる。
「うわっ、やめろって、気持ち悪い!」
とっさに目を閉じて、手で煙を払う。白い靄が晴れて目を開けたとき、そこにいたのは、もういつものジャンだった。
「じゃ、また来ますね〜」
カラカラという音が、薄明かりの中へ遠ざかっていく。
俺はしばらく、その背中から目が離せなかった。
次回「線を引けない名前」 本日20時10分更新です。




