第5話 本当に怖いものは、眠るたびに会いに来る
フローリア暦二一四年 九月三十日
禁令のことは、隣の区画で聞いていた。
煙屋を見つけたら連れてこい。あの上官がそう言ったらしい。兵士たちは、面白半分に教えてくれた。
行かないほうがいい。分かっていた。
けれど、禁令が出て三日。あの区画の連中が、どんな夜を過ごしているかも分かっていた。息が吐けない夜を、僕は知っている。最後の一本を吸い終えた、あの夜を。
曲がり角を曲がると、土嚢の陰で、小さな火が慌てて揉み消された。
「ジャン!」
ニコルだった。泥だらけの顔で、こちらへ駆け寄ってくる。
「来ちゃだめだって! 上官が、煙屋を入れるなって……見つかったら連れてこいって言ってて!」
僕は自転車を止めて、首をかしげてみせた。
「えぇ〜、そうなんですかぁ? 知らなかったなぁ」
いつもの笑顔を、顔に乗せる。
知っていた。全部、知っていた。
「……でも、まあ、来ちゃいましたし」
荷台の木箱を開けると、ニコルの顔が、泣きそうなくらいほっとゆるんだ。
夜の道を、灯りもつけずに自転車で走るのは命取りだ。僕は塹壕の隅を借りて、朝を待つことにした。ニコルは何度も心配そうに振り返りながら、持ち場へ戻っていった。
泥の壁にもたれて目を閉じると、眠りはすぐに来た。
眠りは、いつも同じ場所へ僕を連れていく。
電話が鳴っていた。
店のカウンターの奥。油の染みた受話器を取ると、聞き覚えのある声。あの人が紹介してくれた、友人の声だった。
途切れ途切れの言葉が、耳に入ってくる。旅先で。事故で。病院に運ばれて。
僕は、受話器を握りしめた。
「……誰かと、ぶつかったんですか」
声が、勝手に出ていた。
「それとも、単独ですか」
最初に聞いたのは、それだった。無事なのか、でも、どこの病院か、でもなく。
電話の向こうで、短い沈黙があった。
『……単独、だって』
目が覚めた。
塹壕の隅、泥の壁にもたれたまま、僕は荒く息をしていた。指先が冷たい。夜はまだ深かった。
あの日、最初に確かめたかったのは、あの人の無事じゃなかった。
自分のせいじゃない、という答えだった。
外套の襟を立てて、火を手のひらに包む。ひと口吸い込んで、吐こうとしたとき、暗闇の先にもうひとつ、小さな橙色の光が見えた。
光が揺れて、こちらへ近づいてくる。
「……お前」
押し殺した声。聞き覚えがある。あの夜、泥の底へ僕を引きずり倒した声だ。
「ここにいたら駄目だろう! 上官に見つかったら、どうなるか分かってんのか!」
古参兵――ロドリゴだった。あの夜のあと、名前だけは聞いていた。いつの間に、この区画に来ていたのか。
僕は、反射的に笑っていた。
「いやぁ、どうも〜。お久しぶりです」
「笑ってる場合か」
そう言う古参兵の指先には、手で覆った吸いさしが、しっかり挟まっている。
僕の視線に気づいて、古参兵は小さく舌打ちした。それから、何も言わずに僕の隣へ腰を下ろした。
泥の壁に、二人で背中を預ける。
「こんな夜中に、見回りですか〜?」
僕が聞くと、古参兵は答えなかった。暗がりの中で、その目だけが乾いて光っている。眠っていない人の目。
二本目に火をつけようとして、指先がうまく動かないことに気づいた。夢の名残が、まだ手に残っている。小さな火が、震えて揺れた。
古参兵は、黙ってそれを見ている。
それから、僕の手ごと包むように、外套の陰で火を覆ってくれた。
煙を吐く。遠くで、ときおり何かが破裂する音がする。
しばらくして、古参兵が、ぽつりと言った。
「……震えるほど怖いなら、来ないほうがいいんじゃないか」
僕は、少しだけ笑った。
「いやぁ、寒いだけですよぉ」
古参兵は、それ以上何も聞かなかった。
怖いのは、上官でも、弾でもない。
本当に怖いものは、眠るたびに会いに来る。
次回「『なんで三回も確かめるんだ?』」 明日19時10分更新です。
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