第4話 「自分の墓に、旗を立てるつもりか」
フローリア暦二一四年 九月二十七日
三日続いた秋の長雨で、塹壕の壁が崩れた。
泥の塊が、どさりと足元に落ちてくる。溜まった水は膝のあたりまで来ていて、歩くたびに足を取られた。
「ニコル、桶、こっちにも回せ!」
「分かってるって!」
汲んでも汲んでも、水は減らない。崩れた壁に板を当て、杭を打ち込んで、また泥をかき上げる。雨はやんだのに、作業だけがいつまでも終わらなかった。トマの打った杭だけが、なぜか斜めに傾いている。煙の輪はあんなにきれいに作るくせに。
上官――ジェームズ隊長からは、明日の朝までに終わらせろと言われている。普段はほとんど口を開かない人だ。だからこそ、あの人が口にした期限は絶対だった。
そのくせ、気づけば誰かがいなくなっている。
土嚢の陰。曲がり角の先。少しでも見えにくい場所に、二、三人ずつ固まって、背中を丸めている。そこからは、細い煙が上っていた。
煙屋のジャンが来るようになってから、塹壕の空気は少し変わった。
俺も、人のことは言えない。腕がだるくなると、あの煙が恋しくなる。一本吸って戻ると、不思議と頭の中の嫌なものが遠のいて、体がよく動いた。持ち方まで、いつの間にかジャンの真似をして、中指と薬指で挟むようになっていた。
ただ、その一本ぶん、手は止まる。それが何人も重なれば、どうなるか。
誰も、考えないようにしていた。
「何をしている!!」
塹壕じゅうに、雷みたいな声が落ちた。
土嚢の陰で煙を吐いていた俺たちは、跳ねるように振り返った。振り返る前から、誰の声かは分かっていた。曲がり角に、上官が立っている。
恰幅のいい体が、狭い塹壕をふさいでいる。泥に汚れた外套の下で、太い腕が組まれている。あの寡黙な人が、怒鳴った。それだけで、背筋が凍った。
なのに。
怒鳴られた瞬間、腹の底でかっと熱くなりかけたものが、すうっと引いていった。煙を吸ったばかりの頭は、妙に静かだった。怖い。たしかに怖い。でも、言い返したい気持ちも、縮み上がる気持ちも、どこか遠い。
隣のトマが、気まずそうに笑った。俺も、つられて口元が緩んだ。
「……何がおかしい」
低い声。さっきの怒鳴り声より、ずっと怖い。
上官は大股で近づくと、俺の指から吸いさしをもぎ取った。泥に叩きつけ、軍靴で踏みにじる。
「この煙が、どこまで上ると思っている」
誰も答えられなかった。
「昼は煙。夜は火」
上官は、塹壕の縁の向こうを顎で示した。
「……自分の墓に、旗を立てるつもりか」
上官は、ゆっくりと俺たちを見回した。
「煙屋とかいう男を、二度とこの区画に入れるな。見つけたら、俺のところへ連れてこい」
禁令が出てから、三日が経った。
塹壕の修理は、前よりも遅れている。
腕が重い。桶を持ち上げるたびに、肩がきしむ。頭の中では、いつまで続くんだろう、負けたら家族が、と、あの嫌な考えがまたぐるぐる回り始めていた。手を動かしているのに、少しも前に進まない。
周りの連中も、同じ。誰も口には出さない。けれど、みんな分かっていた。
トマだけは、あの日から本当に一本も吸っていなかった。怒鳴られた夜、少しだけ肩を落としていたくせに、言われたことはきっちり守る奴だった。
あの一本があったほうが、俺たちはよく働けた。
上官は、遅れていく作業を見回っては、黙って眉間の皺を深くした。怠けている、と思っているんだろう。吸ったことのない人には、きっと分からない。
その夜、俺は土嚢の陰で、最後の一本を取り出した。手で火を覆って、背中を丸めて、そっと吸う。
吐いた煙の向こうで、頭がようやく静かになった。
そのとき、曲がり角の向こうから、聞き覚えのある音。
カラカラ、カラカラ。
禁じられたはずの、あの音だった。
次回「本当に怖いものは、眠るたびに会いに来る」 続けて公開しています。




