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煙屋のジャン 〜異世界の塹壕で、僕は今日もタバコを配る〜  作者: mickmick893
第一章 もう一本くれよ
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第4話 「自分の墓に、旗を立てるつもりか」

フローリア暦二一四年 九月二十七日


三日続いた秋の長雨で、塹壕の壁が崩れた。

泥の塊が、どさりと足元に落ちてくる。溜まった水は膝のあたりまで来ていて、歩くたびに足を取られた。

「ニコル、桶、こっちにも回せ!」

「分かってるって!」

汲んでも汲んでも、水は減らない。崩れた壁に板を当て、杭を打ち込んで、また泥をかき上げる。雨はやんだのに、作業だけがいつまでも終わらなかった。トマの打った杭だけが、なぜか斜めに傾いている。煙の輪はあんなにきれいに作るくせに。

上官――ジェームズ隊長からは、明日の朝までに終わらせろと言われている。普段はほとんど口を開かない人だ。だからこそ、あの人が口にした期限は絶対だった。

そのくせ、気づけば誰かがいなくなっている。

土嚢の陰。曲がり角の先。少しでも見えにくい場所に、二、三人ずつ固まって、背中を丸めている。そこからは、細い煙が上っていた。

煙屋のジャンが来るようになってから、塹壕の空気は少し変わった。

俺も、人のことは言えない。腕がだるくなると、あの煙が恋しくなる。一本吸って戻ると、不思議と頭の中の嫌なものが遠のいて、体がよく動いた。持ち方まで、いつの間にかジャンの真似をして、中指と薬指で挟むようになっていた。

ただ、その一本ぶん、手は止まる。それが何人も重なれば、どうなるか。

誰も、考えないようにしていた。

 

「何をしている!!」

塹壕じゅうに、雷みたいな声が落ちた。

土嚢の陰で煙を吐いていた俺たちは、跳ねるように振り返った。振り返る前から、誰の声かは分かっていた。曲がり角に、上官が立っている。

恰幅のいい体が、狭い塹壕をふさいでいる。泥に汚れた外套の下で、太い腕が組まれている。あの寡黙な人が、怒鳴った。それだけで、背筋が凍った。

なのに。

怒鳴られた瞬間、腹の底でかっと熱くなりかけたものが、すうっと引いていった。煙を吸ったばかりの頭は、妙に静かだった。怖い。たしかに怖い。でも、言い返したい気持ちも、縮み上がる気持ちも、どこか遠い。

隣のトマが、気まずそうに笑った。俺も、つられて口元が緩んだ。

「……何がおかしい」

低い声。さっきの怒鳴り声より、ずっと怖い。

上官は大股で近づくと、俺の指から吸いさしをもぎ取った。泥に叩きつけ、軍靴で踏みにじる。

「この煙が、どこまで上ると思っている」

誰も答えられなかった。

「昼は煙。夜は火」

上官は、塹壕の縁の向こうを顎で示した。

「……自分の墓に、旗を立てるつもりか」

上官は、ゆっくりと俺たちを見回した。

「煙屋とかいう男を、二度とこの区画に入れるな。見つけたら、俺のところへ連れてこい」

 

禁令が出てから、三日が経った。

塹壕の修理は、前よりも遅れている。

腕が重い。桶を持ち上げるたびに、肩がきしむ。頭の中では、いつまで続くんだろう、負けたら家族が、と、あの嫌な考えがまたぐるぐる回り始めていた。手を動かしているのに、少しも前に進まない。

周りの連中も、同じ。誰も口には出さない。けれど、みんな分かっていた。

トマだけは、あの日から本当に一本も吸っていなかった。怒鳴られた夜、少しだけ肩を落としていたくせに、言われたことはきっちり守る奴だった。

あの一本があったほうが、俺たちはよく働けた。

上官は、遅れていく作業を見回っては、黙って眉間の皺を深くした。怠けている、と思っているんだろう。吸ったことのない人には、きっと分からない。

その夜、俺は土嚢の陰で、最後の一本を取り出した。手で火を覆って、背中を丸めて、そっと吸う。

吐いた煙の向こうで、頭がようやく静かになった。

そのとき、曲がり角の向こうから、聞き覚えのある音。

カラカラ、カラカラ。

禁じられたはずの、あの音だった。

次回「本当に怖いものは、眠るたびに会いに来る」 続けて公開しています。

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