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煙屋のジャン 〜異世界の塹壕で、僕は今日もタバコを配る〜  作者: mickmick893
第一章 もう一本くれよ
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第3話 何も治さない男は、ジャンと名乗った

フローリア暦二一四年 九月十日


箱の中身は、あっという間に減っていった。

最後の一本を吸い終えた夜、僕は眠れなかった。

息が、吐けない。胸の底から這い上がってきたものが、頭の中に居座って出ていかない。締め出す方法が、もう手元にない。

気づけば、塹壕の外に落ちていた枯葉を拾い集めていた。手で揉んで、拾った紙切れで巻いて、火をつける。

「ごほっ、ごぼっ……うぇっ」

ひどい味。喉が焼けて、涙が出る。口に溜まった唾が苦くて、何度吐き捨てても、歯に張りついた煙の味が消えない。煙というより、ただの焚き火の煙。それでも、吐いた。むせながら、吐いた。

次の日から、葉を探して歩いた。

燃やして、嗅いで、吸って、吐く。どの葉を、どれだけ干して、どう巻いたか。全部、拾った手帳に書きつけた。整備の記録と同じだ。書いておかないと、不安で眠れない。

何十枚目かの葉に火をつけたとき、懐かしい匂いがした。土の匂いの奥にある、ほのかに甘い、あの匂い。

僕はその葉を握りしめて、しばらく動けなかった。

 

けれど、見つけただけでは吸えない。

葉は、干して寝かせなければ、ただの青臭い草だ。前の世界の知識が正しければ、まともに吸えるようになるまで何週間もかかる。

そんなに待てなかった。

街外れの鍛冶屋を訪ねたのは、炉の熱を借りられないかと思ったからだ。

鍛冶屋は、無口で、腕の太い男。籠いっぱいの葉を見せると、眉をひそめた。

「何だ、こりゃ」

「葉っぱです。乾かしたいんです。炉の熱を、少しだけ貸してもらえませんか」

「馬鹿言え。炉は遊び道具じゃねえ」

追い返されかけて、それでも僕は動かなかった。動けなかった、のほうが近い。ここで帰されたら、今夜も息が吐けない。

しばらく睨み合ったあと、男は大きなため息をついて、籠に手をかざした。

掌のあたりから、ふわりと熱い風が流れ出す。青々としていた葉が、みるみるうちに色を変え、乾いた音を立てて縮れていく。

「……魔法、ですか」

「こんなもん、魔法のうちに入らねえよ」

この世界には、魔法がある。けれど戦で使えるほどの力を持つのは、ひと握りの貴族だけだという。街の人間が使えるのは、火を少し強くしたり、風を少し起こしたりする程度の、暮らしの魔法だけだ。

乾いた葉を揉んで、紙で巻く。火をつけて、吸って、溜めて、吐く。

煙が、ちゃんと煙だった。

頭の芯が痺れて、居座っていたものが締め出されていく。何日ぶりだろう。僕はようやく、息を吐いた。

男が、怪訝な顔でこちらを見ている。僕は二本目を巻いて、差し出した。男は胡散臭そうに火をつけ、むせて、それから黙って煙を吐いた。

「……魔法で、頭の中のものも乾かせたらいいんですけどね」

ぽつりとこぼすと、男は鼻で笑った。

「そんな魔法があったら、戦なんかとっくに終わってる」

どんな魔法も、心だけは治せないらしい。

「お前、名前は」

「高瀬、修です」

「タカ……オサ……?」

鍛冶屋は顔をしかめて、舌がもつれたように黙り込んだ。この世界の人には、発音しにくい名前らしい。前にも、何人かに同じ顔をされた。

「……ジャンで、いいです」

口をついて出たのは、タバコを薬として広めた男の名前だった。何も治さないものを配る僕には、ちょうどいい皮肉だと思った。

「ジャンか。言いやすいな」

本当の名前は、それきり誰にも名乗っていない。

 

あの古参兵が、自分の持ち場で噂を広めたらしい。気づけば、その区画の兵士たちが煙を求めてくるようになった。代わりに渡されるのは、固いパンや、硬貨が数枚。もっとも、パンはいつも半分残った。タバコがあれば、腹は減らない。

この世界で、僕には仕事も家もない。食べるには、何かを売るしかない。売れるものは、これしかなかった。

結局、ここでも同じだ。生きるために、続けるしかない。

前線は長い。塹壕から塹壕へ、歩けば何日もかかる。馬は軍のもので、よそ者には回ってこない。

それに、動いている間だけは、頭に入り込んでくるものが少しだけ静かになる。前の世界でも、わざわざ遠くまで走っていた。誰にも会わず、何も考えずに済む時間が欲しくて。

僕が知っている足は、ひとつしかなかった。

紙切れに二つの輪の絵を描いて、また鍛冶屋の戸を叩いた。

「また妙なもんを持ってきやがったな」

「乗り物です。足で漕いで走る」

「馬鹿言え」

同じ台詞なのに、今度の男は、もう追い返そうとはしなかった。黙って一本を受け取り、煙を吐きながら、僕の絵をじっと見下ろした。

「……輪っかは、鉄で巻けばいい。問題は、この軸だな」

それから何度、あの店に通ったか分からない。蹴って進むだけの一台目。ペダルをつけた二台目。

二台目は、乗るたびにどこかで小さく軋む。どこが悪いのか、僕には分かっていた。僕は鍛冶屋の裏の廃材置き場に、それを置いてきた。

直せばいい。分かっていた。でも、直したものが、また誰かを――

その先は、考えないことにした。

 

ニコルたちの塹壕を離れ、曲がり角で煙を吐き終えると、僕はまた自転車を漕ぎだした。

その夜、寝床代わりの廃屋で、手帳を開いた。前のほうのページは、葉の名前と、干した日数と、燃やした匂いの記録で埋まっている。

ペンを握ったまま、人差し指をこめかみに当てる。考えごとをするときの癖だ。タバコは、中指と薬指のあいだに挟んでいる。

前の世界で、整備記録を書きながら考え込んでいて、眼鏡のレンズを焦がしたことがある。普通に挟むと、火が顔に近すぎるのだ。それから、この持ち方になった。中指と薬指は、力を抜いても自然と閉じる。考えごとに沈んでいても、指が開いて落とすことがない。レンズの端には、今も小さな焦げ跡が残っている。

それに、この持ち方だと、吸うたびに手のひらが口元を覆う。人差し指で挟むより、指一本ぶんだけ多く。笑っていない口を、少しだけ隠せる。

女の人みたいな持ち方だと、笑われたこともある。この世界で、その意味を知っている人はいない。

吸い終えた一本を、水を張った小さな鉄の缶に沈める。じゅっ、と短い音がして、火が死ぬ。しっかり水に浸かったのを確かめてから、缶の蓋を閉める。鍛冶屋さんに作ってもらった、僕の灰皿だ。

前の世界では、飲み終えた缶コーヒーの空き缶がそうだった。缶コーヒーと、タバコと。それさえあれば、どこへでも行けた。

この世界に、缶コーヒーはない。

この世界に来て、ふた月が経っていた。その次の、白いページに、まず日付を書く。フローリア暦二一四年、九月十日。整備記録と同じだ。日付のない記録は、記録じゃない。

――ニコル。はじめての一本で、盛大にむせた。涙目で、もう一本くれと言った。

書き終えて、ペンを置く。

前の世界でも、こうして書いていた。誰の自転車を、いつ、どう直したか。何を締めて、何を替えたか。

あの日の記録にも、ちゃんと書いてある。

ハンドル、締めた、と。

次回「『自分の墓に、旗を立てるつもりか』」 続けて公開しています。

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