第3話 何も治さない男は、ジャンと名乗った
フローリア暦二一四年 九月十日
箱の中身は、あっという間に減っていった。
最後の一本を吸い終えた夜、僕は眠れなかった。
息が、吐けない。胸の底から這い上がってきたものが、頭の中に居座って出ていかない。締め出す方法が、もう手元にない。
気づけば、塹壕の外に落ちていた枯葉を拾い集めていた。手で揉んで、拾った紙切れで巻いて、火をつける。
「ごほっ、ごぼっ……うぇっ」
ひどい味。喉が焼けて、涙が出る。口に溜まった唾が苦くて、何度吐き捨てても、歯に張りついた煙の味が消えない。煙というより、ただの焚き火の煙。それでも、吐いた。むせながら、吐いた。
次の日から、葉を探して歩いた。
燃やして、嗅いで、吸って、吐く。どの葉を、どれだけ干して、どう巻いたか。全部、拾った手帳に書きつけた。整備の記録と同じだ。書いておかないと、不安で眠れない。
何十枚目かの葉に火をつけたとき、懐かしい匂いがした。土の匂いの奥にある、ほのかに甘い、あの匂い。
僕はその葉を握りしめて、しばらく動けなかった。
けれど、見つけただけでは吸えない。
葉は、干して寝かせなければ、ただの青臭い草だ。前の世界の知識が正しければ、まともに吸えるようになるまで何週間もかかる。
そんなに待てなかった。
街外れの鍛冶屋を訪ねたのは、炉の熱を借りられないかと思ったからだ。
鍛冶屋は、無口で、腕の太い男。籠いっぱいの葉を見せると、眉をひそめた。
「何だ、こりゃ」
「葉っぱです。乾かしたいんです。炉の熱を、少しだけ貸してもらえませんか」
「馬鹿言え。炉は遊び道具じゃねえ」
追い返されかけて、それでも僕は動かなかった。動けなかった、のほうが近い。ここで帰されたら、今夜も息が吐けない。
しばらく睨み合ったあと、男は大きなため息をついて、籠に手をかざした。
掌のあたりから、ふわりと熱い風が流れ出す。青々としていた葉が、みるみるうちに色を変え、乾いた音を立てて縮れていく。
「……魔法、ですか」
「こんなもん、魔法のうちに入らねえよ」
この世界には、魔法がある。けれど戦で使えるほどの力を持つのは、ひと握りの貴族だけだという。街の人間が使えるのは、火を少し強くしたり、風を少し起こしたりする程度の、暮らしの魔法だけだ。
乾いた葉を揉んで、紙で巻く。火をつけて、吸って、溜めて、吐く。
煙が、ちゃんと煙だった。
頭の芯が痺れて、居座っていたものが締め出されていく。何日ぶりだろう。僕はようやく、息を吐いた。
男が、怪訝な顔でこちらを見ている。僕は二本目を巻いて、差し出した。男は胡散臭そうに火をつけ、むせて、それから黙って煙を吐いた。
「……魔法で、頭の中のものも乾かせたらいいんですけどね」
ぽつりとこぼすと、男は鼻で笑った。
「そんな魔法があったら、戦なんかとっくに終わってる」
どんな魔法も、心だけは治せないらしい。
「お前、名前は」
「高瀬、修です」
「タカ……オサ……?」
鍛冶屋は顔をしかめて、舌がもつれたように黙り込んだ。この世界の人には、発音しにくい名前らしい。前にも、何人かに同じ顔をされた。
「……ジャンで、いいです」
口をついて出たのは、タバコを薬として広めた男の名前だった。何も治さないものを配る僕には、ちょうどいい皮肉だと思った。
「ジャンか。言いやすいな」
本当の名前は、それきり誰にも名乗っていない。
あの古参兵が、自分の持ち場で噂を広めたらしい。気づけば、その区画の兵士たちが煙を求めてくるようになった。代わりに渡されるのは、固いパンや、硬貨が数枚。もっとも、パンはいつも半分残った。タバコがあれば、腹は減らない。
この世界で、僕には仕事も家もない。食べるには、何かを売るしかない。売れるものは、これしかなかった。
結局、ここでも同じだ。生きるために、続けるしかない。
前線は長い。塹壕から塹壕へ、歩けば何日もかかる。馬は軍のもので、よそ者には回ってこない。
それに、動いている間だけは、頭に入り込んでくるものが少しだけ静かになる。前の世界でも、わざわざ遠くまで走っていた。誰にも会わず、何も考えずに済む時間が欲しくて。
僕が知っている足は、ひとつしかなかった。
紙切れに二つの輪の絵を描いて、また鍛冶屋の戸を叩いた。
「また妙なもんを持ってきやがったな」
「乗り物です。足で漕いで走る」
「馬鹿言え」
同じ台詞なのに、今度の男は、もう追い返そうとはしなかった。黙って一本を受け取り、煙を吐きながら、僕の絵をじっと見下ろした。
「……輪っかは、鉄で巻けばいい。問題は、この軸だな」
それから何度、あの店に通ったか分からない。蹴って進むだけの一台目。ペダルをつけた二台目。
二台目は、乗るたびにどこかで小さく軋む。どこが悪いのか、僕には分かっていた。僕は鍛冶屋の裏の廃材置き場に、それを置いてきた。
直せばいい。分かっていた。でも、直したものが、また誰かを――
その先は、考えないことにした。
ニコルたちの塹壕を離れ、曲がり角で煙を吐き終えると、僕はまた自転車を漕ぎだした。
その夜、寝床代わりの廃屋で、手帳を開いた。前のほうのページは、葉の名前と、干した日数と、燃やした匂いの記録で埋まっている。
ペンを握ったまま、人差し指をこめかみに当てる。考えごとをするときの癖だ。タバコは、中指と薬指のあいだに挟んでいる。
前の世界で、整備記録を書きながら考え込んでいて、眼鏡のレンズを焦がしたことがある。普通に挟むと、火が顔に近すぎるのだ。それから、この持ち方になった。中指と薬指は、力を抜いても自然と閉じる。考えごとに沈んでいても、指が開いて落とすことがない。レンズの端には、今も小さな焦げ跡が残っている。
それに、この持ち方だと、吸うたびに手のひらが口元を覆う。人差し指で挟むより、指一本ぶんだけ多く。笑っていない口を、少しだけ隠せる。
女の人みたいな持ち方だと、笑われたこともある。この世界で、その意味を知っている人はいない。
吸い終えた一本を、水を張った小さな鉄の缶に沈める。じゅっ、と短い音がして、火が死ぬ。しっかり水に浸かったのを確かめてから、缶の蓋を閉める。鍛冶屋さんに作ってもらった、僕の灰皿だ。
前の世界では、飲み終えた缶コーヒーの空き缶がそうだった。缶コーヒーと、タバコと。それさえあれば、どこへでも行けた。
この世界に、缶コーヒーはない。
この世界に来て、ふた月が経っていた。その次の、白いページに、まず日付を書く。フローリア暦二一四年、九月十日。整備記録と同じだ。日付のない記録は、記録じゃない。
――ニコル。はじめての一本で、盛大にむせた。涙目で、もう一本くれと言った。
書き終えて、ペンを置く。
前の世界でも、こうして書いていた。誰の自転車を、いつ、どう直したか。何を締めて、何を替えたか。
あの日の記録にも、ちゃんと書いてある。
ハンドル、締めた、と。
次回「『自分の墓に、旗を立てるつもりか』」 続けて公開しています。




