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煙屋のジャン 〜異世界の塹壕で、僕は今日もタバコを配る〜  作者: mickmick893
第一章 もう一本くれよ
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第2話 煙が晴れたら、そこは戦場だった

挿絵(By みてみん)



フローリア暦二一四年 九月十日


曲がり角を過ぎて、自転車を止めた。

頬から、笑顔が落ちる。

落ちる、という言い方が一番近い。外したわけでも、崩れたわけでもない。誰も見ていなくなった途端、勝手に剥がれ落ちていく。

疲れたわけじゃない。悲しいわけでもない。笑顔は、少しも疲れない。人の前に立てば、能面みたいに勝手に貼りつく。そういうふうに、いつの間にかできている。

だから、これが本当の顔なんだと思う。

昔、店の常連さんに言われたことがある。修くん、黙ってると怖いよ、って。

僕はそのとき、なんて返したんだったか。たぶん、笑ったんだと思う。

それから、眼鏡を丸いフレームに替えた。細い金属の、柔らかく見えるものに。少しでも、怖く見えないように。

その眼鏡を、この世界にまでかけてきてしまった。

 

あの夜も、タバコを切らしていた。

日付が変わる頃のコンビニを選ぶのは、いつものことだった。客がいない。知った顔に会わない。レジで銘柄の番号を告げて、一箱だけ買う。それ以上でも、それ以下でもない。

切らすと、息が吐けなくなる。

吸うことはできる。ただ、吐き方を忘れてしまう。胸の底に溜まったものが、少しずつ這い上がってきて、頭の中にまで入り込んでくる。考えなくていいことばかりが、頭を埋めていく。

煙と一緒でなければ、僕は息を吐けない。

店に戻って、裏口のシャッターの前にしゃがみ込む。封を切って、一本くわえて、火をつけた。

吸って、溜めて。ゆっくりと、吐く。

白い煙が、夜の空気にほどけていく。頭の芯がじんと痺れて、入り込んでいたものが締め出される。それから、煙と一緒に外へ出ていった。

煙が晴れたとき、目の前にあったのは、見慣れたシャッターではなかった。

泥の壁。鼻をつく、鉄と土の匂い。遠くで、何かが破裂する音。

不思議と、叫び声は出なかった。

ああ、とうとう来たか。最初に浮かんだのは、そんな感想だった。

うつが、ついに幻覚まで見せるようになったのか。それとも、薬が効きすぎて、夢の中に迷い込んだのか。あるいは単純に、タバコの吸いすぎで頭がいかれたか。

どれもありそうで、どれでもよかった。

泥の壁に背中を預けて、指先を見る。火のついたタバコは、まだそこにあった。煙もちゃんと上っている。

幻覚でも、夢でも、頭がいかれていても。とりあえず、これがあるなら、息は吐ける。

僕はもう一度、ゆっくりと煙を吸い込んだ。

その瞬間だった。

パン、と乾いた音がして、すぐ横の泥が弾けた。

何が起きたのか分からなかった。ただ、誰かに胸ぐらをつかまれ、泥の底へ引きずり倒されていた。

「馬鹿野郎、火を消せ!」

押し殺した声が、耳元で唸る。指先のタバコがもぎ取られ、泥に押しつけられて、じゅっと消える。

暗闇の中で、相手の荒い息だけが聞こえる。

「……死にてえのか、お前」

死にたいのか。その問いに、僕はすぐには答えられなかった。

答えられないでいると、男が鼻をひくつかせた。

「……さっきの、あれは何だ。妙な匂いがした」

「タバコ、です」

「たばこ?」

聞いたことがない、という声。僕は箱から一本を取り出して、暗闇の中で差し出した。男はしばらく黙っていたが、やがて、ごつごつした指がそれを受け取った。

「火をつけるなら」と、男が低く言った。「こうしろ」

男は外套の襟を立て、両手で火を包み込むように覆った。指の隙間から、ほんの一瞬だけ、橙色の光が漏れて消える。

「火は手で隠せ。光は、ここじゃ死を呼ぶ」

僕が吸い方を教えると、男は案の定むせた。むせながら、それでも二口目を吸った。

暗闇の中で、男が長く息を吐く音。

それが、この世界で最初の一本になった。

夜が明ければ、醒めると思っていた。

目を開けても、そこは泥の壁。次の日も、その次の日も。

古参兵に、日本という国を知っているかと聞いた。知らない、と言われた。コンビニも、電話も、タバコも、誰も知らない。渡された硬貨には、見たこともない横顔が刻まれている。夜空の星の並びにも、見覚えがひとつもなかった。ここはフローリアという王国で、向こうの塹壕にいるのはシュタールという帝国の兵だと、古参兵は当たり前のように言った。今年はフローリア暦二一四年の夏だ、とも言った。どちらの名前も、その暦も、聞いたことがなかった。

言葉だけは、なぜか通じた。それが一番、気味が悪かった。

なんだよ、ここは。

叫びたかったのかもしれない。でも、声は出なかった。代わりに、箱から一本を抜いて、教わったとおり手で火を隠しながら吸った。

吐いて、ようやく少しだけ、考えられるようになる。

幻覚にしては、長すぎる。夢にしては、泥が冷たすぎる。

ここは、僕のいた世界じゃない。

そう認めるまでに、箱の中身は半分になっていた。

次回「何も治さない男は、ジャンと名乗った」 本日21時10分更新です。

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