第2話 煙が晴れたら、そこは戦場だった
フローリア暦二一四年 九月十日
曲がり角を過ぎて、自転車を止めた。
頬から、笑顔が落ちる。
落ちる、という言い方が一番近い。外したわけでも、崩れたわけでもない。誰も見ていなくなった途端、勝手に剥がれ落ちていく。
疲れたわけじゃない。悲しいわけでもない。笑顔は、少しも疲れない。人の前に立てば、能面みたいに勝手に貼りつく。そういうふうに、いつの間にかできている。
だから、これが本当の顔なんだと思う。
昔、店の常連さんに言われたことがある。修くん、黙ってると怖いよ、って。
僕はそのとき、なんて返したんだったか。たぶん、笑ったんだと思う。
それから、眼鏡を丸いフレームに替えた。細い金属の、柔らかく見えるものに。少しでも、怖く見えないように。
その眼鏡を、この世界にまでかけてきてしまった。
あの夜も、タバコを切らしていた。
日付が変わる頃のコンビニを選ぶのは、いつものことだった。客がいない。知った顔に会わない。レジで銘柄の番号を告げて、一箱だけ買う。それ以上でも、それ以下でもない。
切らすと、息が吐けなくなる。
吸うことはできる。ただ、吐き方を忘れてしまう。胸の底に溜まったものが、少しずつ這い上がってきて、頭の中にまで入り込んでくる。考えなくていいことばかりが、頭を埋めていく。
煙と一緒でなければ、僕は息を吐けない。
店に戻って、裏口のシャッターの前にしゃがみ込む。封を切って、一本くわえて、火をつけた。
吸って、溜めて。ゆっくりと、吐く。
白い煙が、夜の空気にほどけていく。頭の芯がじんと痺れて、入り込んでいたものが締め出される。それから、煙と一緒に外へ出ていった。
煙が晴れたとき、目の前にあったのは、見慣れたシャッターではなかった。
泥の壁。鼻をつく、鉄と土の匂い。遠くで、何かが破裂する音。
不思議と、叫び声は出なかった。
ああ、とうとう来たか。最初に浮かんだのは、そんな感想だった。
うつが、ついに幻覚まで見せるようになったのか。それとも、薬が効きすぎて、夢の中に迷い込んだのか。あるいは単純に、タバコの吸いすぎで頭がいかれたか。
どれもありそうで、どれでもよかった。
泥の壁に背中を預けて、指先を見る。火のついたタバコは、まだそこにあった。煙もちゃんと上っている。
幻覚でも、夢でも、頭がいかれていても。とりあえず、これがあるなら、息は吐ける。
僕はもう一度、ゆっくりと煙を吸い込んだ。
その瞬間だった。
パン、と乾いた音がして、すぐ横の泥が弾けた。
何が起きたのか分からなかった。ただ、誰かに胸ぐらをつかまれ、泥の底へ引きずり倒されていた。
「馬鹿野郎、火を消せ!」
押し殺した声が、耳元で唸る。指先のタバコがもぎ取られ、泥に押しつけられて、じゅっと消える。
暗闇の中で、相手の荒い息だけが聞こえる。
「……死にてえのか、お前」
死にたいのか。その問いに、僕はすぐには答えられなかった。
答えられないでいると、男が鼻をひくつかせた。
「……さっきの、あれは何だ。妙な匂いがした」
「タバコ、です」
「たばこ?」
聞いたことがない、という声。僕は箱から一本を取り出して、暗闇の中で差し出した。男はしばらく黙っていたが、やがて、ごつごつした指がそれを受け取った。
「火をつけるなら」と、男が低く言った。「こうしろ」
男は外套の襟を立て、両手で火を包み込むように覆った。指の隙間から、ほんの一瞬だけ、橙色の光が漏れて消える。
「火は手で隠せ。光は、ここじゃ死を呼ぶ」
僕が吸い方を教えると、男は案の定むせた。むせながら、それでも二口目を吸った。
暗闇の中で、男が長く息を吐く音。
それが、この世界で最初の一本になった。
夜が明ければ、醒めると思っていた。
目を開けても、そこは泥の壁。次の日も、その次の日も。
古参兵に、日本という国を知っているかと聞いた。知らない、と言われた。コンビニも、電話も、タバコも、誰も知らない。渡された硬貨には、見たこともない横顔が刻まれている。夜空の星の並びにも、見覚えがひとつもなかった。ここはフローリアという王国で、向こうの塹壕にいるのはシュタールという帝国の兵だと、古参兵は当たり前のように言った。今年はフローリア暦二一四年の夏だ、とも言った。どちらの名前も、その暦も、聞いたことがなかった。
言葉だけは、なぜか通じた。それが一番、気味が悪かった。
なんだよ、ここは。
叫びたかったのかもしれない。でも、声は出なかった。代わりに、箱から一本を抜いて、教わったとおり手で火を隠しながら吸った。
吐いて、ようやく少しだけ、考えられるようになる。
幻覚にしては、長すぎる。夢にしては、泥が冷たすぎる。
ここは、僕のいた世界じゃない。
そう認めるまでに、箱の中身は半分になっていた。
次回「何も治さない男は、ジャンと名乗った」 本日21時10分更新です。




