↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
煙屋のジャン 〜異世界の塹壕で、僕は今日もタバコを配る〜  作者: mickmick893
第一章 もう一本くれよ
PR
1/18

第1話 「タバコ、要りませんか?」

挿絵(By みてみん)


フローリア暦二一四年 九月十日


泥は、乾く暇もなかった。

塹壕の底に溜まった水が、靴の中まで染みてくる。足が温かかった日のことは、もう思い出せない。

頭を上げれば撃たれる。それだけが、この場所で確かなこと。

ネーベル戦線。霧と煙の区別もつかないこの場所に来て、もう何か月になるだろう。

シュタール帝国の塹壕は、目と鼻の先にある。向こうも同じように息を潜めている。昨日も、一昨日も、その前も。誰も前に出られず、誰も退けない。

――いつまで続くんだろう。

壁にもたれて、四角く切り取られた灰色の空を見上げる。

早く終わってほしい。けれど、負けるわけにはいかない。負ければ、国に残してきた家族が殺される。

だから今日も、ここで息を潜めている。

 

その音は、銃声でも砲声でもなかった。

キイィィ――と、耳の奥を引っかくような甲高い音。続いて、何かが細かく噛み合うような、カラカラという音。

聞いたことがない。こんな音を立てるものを、俺は知らない。

「敵か……!」

誰かが叫び、一斉に銃口が上がる。俺も慌てて銃を構えた。

音のした方、塹壕の奥の曲がり角。そこから現れたのは、二つの輪を細い骨組みでつないだ、奇妙な乗り物。

乗っているのは、男がひとり。口に白い棒のようなものを咥えて、ゆるりと煙を吐いている。銃口が何本も向けられているのに、少しも慌てた様子がない。丸い眼鏡の奥で、目だけが妙に眠たげだった。白い棒は、なぜか中指と薬指のあいだに挟まれている。変な持ち方だ、と思った。

「いやぁ、どうも〜」

男は、場違いなほど間の抜けた声で言った。

「誰だよ、お前!!」

一番大きな声を出したのは、俺だった。

「煙屋のジャンです〜」

「けむりや……? そんな商売が前線に来るかよ!」

「来ちゃいましたねぇ」

男はへらりと笑って、乗り物から降りた。後ろの荷台には、木箱がひとつ括りつけてある。男は箱から白い棒を一本取り出すと、なぜか指先で二度、三度と確かめるように転がしてから、こちらへ差し出した。

「タバコ、要りませんか?」

「……たばこ? なんだそれ」

「心が軽くなりますよぉ」

怪しい。どう考えても怪しい。

なのに、気づけば俺は手を伸ばしていた。こんな日がいつまで続くのか分からない場所で、軽くなるという言葉に、抗えなかった。

男が火をつけてくれる。言われるままに、思いきり吸い込んだ。

「――ッ、げほっ、ごほっ!」

喉が焼ける。目に煙が染みる。口の中に溜まった唾まで苦くて、思わず泥に吐き捨てた。周りの連中が腹を抱えて笑っている。

「ニコル、お前、涙目じゃねえか!」

「あはは、いきなり吸い込むからですよぉ」

男は自分の一本を指に挟み直して、見本を見せるようにゆっくりと口元へ運んだ。

「最初は口に溜めるだけ。それから、ちょっとずつ胸に落とすんです。で、吐くときは、ゆっくり。……こうやって」

細く、長く。男の口から煙が流れ出ていく。

俺は涙目のまま、言われたとおりにもう一度くわえた。口に溜めて、少しずつ胸に落として。

そして、ゆっくりと吐く。

白い煙が、目の前でほどけていく。その煙と一緒に、胸の奥に突っかかっていたものまで、少しだけ外へ出ていく気がした。

「そうそう、上手いじゃないですか」

男は満足そうに頷いて、それから少しだけ声を落とした。

「次は、思いっきり吐いてみてください。……なんか、疲れも一緒に出ていくような気がしませんか?」

言われるまま、もう一度深く吸い込んで、腹の底から息を押し出した。煙が勢いよく灰色の空へ昇っていく。

肩から、力が抜けた。

いつからこんなに強張っていたのか、自分でも分からなかった。何日も、何十日も、ずっと縮こまっていた体が、煙と一緒にほどけていく。

頭の芯が、じんわりと痺れる。いつまで続くんだろう。負けたら家族が。頭の中をぐるぐる回っていた考えが少しだけ遠のいて、輪郭がぼやけていく。

まずい。喉は痛いし、煙たい。歯にまで煙がまとわりついて、口の中がずっと苦い。

それなのに。

「……なあ。これ、なんなんだ? 薬なのか?」

男は一瞬だけ、煙の向こうで目を細めた。

「薬じゃないですよぉ。なーんにも治しません」

それから、いつものへらりとした顔に戻って、指先の一本を軽く振った。

「ただ、ちょっとだけ、前に進めるようになるだけです」

治さない。なのに、進めるようになる。意味は、よく分からない。けれど、胸の軽さだけは、本物だった。

「……じゃあさ、もう一本くれよ」

「あはは、気に入ってもらえて何よりです」

気づけば、周りの連中も男を囲んでいた。むせる者、涙目で笑う者、黙って煙を見つめる者。トマなんか、初めての一本で、ぽっかりと煙の輪を浮かべてみせた。

塹壕の中で笑い声を聞いたのは、ずいぶん久しぶりだった。

 

男は荷台の木箱を閉めると、また奇妙な乗り物にまたがった。

「じゃ、また来ますね〜」

「また来るのかよ」

「来ますよぉ。……いやぁ、今日は静かでいいですね〜」

そう言い残して、男はカラカラと音を立てながら、塹壕の奥へ去っていった。

静か、だと。撃たれるのが怖くて、誰も頭を上げられないこの場所が。

俺は指に挟んだ吸いさしを見下ろして、もう一度だけ、男が消えた方を振り返る。

曲がり角の手前で、男が乗り物を止めている。こちらに背を向けたまま、ゆっくりと煙を吐いている。

その横顔は、もう笑っていなかった。



挿絵(By みてみん)

次回「煙が晴れたら、そこは戦場だった」 続けて公開しています。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。