第1話 「タバコ、要りませんか?」
フローリア暦二一四年 九月十日
泥は、乾く暇もなかった。
塹壕の底に溜まった水が、靴の中まで染みてくる。足が温かかった日のことは、もう思い出せない。
頭を上げれば撃たれる。それだけが、この場所で確かなこと。
ネーベル戦線。霧と煙の区別もつかないこの場所に来て、もう何か月になるだろう。
シュタール帝国の塹壕は、目と鼻の先にある。向こうも同じように息を潜めている。昨日も、一昨日も、その前も。誰も前に出られず、誰も退けない。
――いつまで続くんだろう。
壁にもたれて、四角く切り取られた灰色の空を見上げる。
早く終わってほしい。けれど、負けるわけにはいかない。負ければ、国に残してきた家族が殺される。
だから今日も、ここで息を潜めている。
その音は、銃声でも砲声でもなかった。
キイィィ――と、耳の奥を引っかくような甲高い音。続いて、何かが細かく噛み合うような、カラカラという音。
聞いたことがない。こんな音を立てるものを、俺は知らない。
「敵か……!」
誰かが叫び、一斉に銃口が上がる。俺も慌てて銃を構えた。
音のした方、塹壕の奥の曲がり角。そこから現れたのは、二つの輪を細い骨組みでつないだ、奇妙な乗り物。
乗っているのは、男がひとり。口に白い棒のようなものを咥えて、ゆるりと煙を吐いている。銃口が何本も向けられているのに、少しも慌てた様子がない。丸い眼鏡の奥で、目だけが妙に眠たげだった。白い棒は、なぜか中指と薬指のあいだに挟まれている。変な持ち方だ、と思った。
「いやぁ、どうも〜」
男は、場違いなほど間の抜けた声で言った。
「誰だよ、お前!!」
一番大きな声を出したのは、俺だった。
「煙屋のジャンです〜」
「けむりや……? そんな商売が前線に来るかよ!」
「来ちゃいましたねぇ」
男はへらりと笑って、乗り物から降りた。後ろの荷台には、木箱がひとつ括りつけてある。男は箱から白い棒を一本取り出すと、なぜか指先で二度、三度と確かめるように転がしてから、こちらへ差し出した。
「タバコ、要りませんか?」
「……たばこ? なんだそれ」
「心が軽くなりますよぉ」
怪しい。どう考えても怪しい。
なのに、気づけば俺は手を伸ばしていた。こんな日がいつまで続くのか分からない場所で、軽くなるという言葉に、抗えなかった。
男が火をつけてくれる。言われるままに、思いきり吸い込んだ。
「――ッ、げほっ、ごほっ!」
喉が焼ける。目に煙が染みる。口の中に溜まった唾まで苦くて、思わず泥に吐き捨てた。周りの連中が腹を抱えて笑っている。
「ニコル、お前、涙目じゃねえか!」
「あはは、いきなり吸い込むからですよぉ」
男は自分の一本を指に挟み直して、見本を見せるようにゆっくりと口元へ運んだ。
「最初は口に溜めるだけ。それから、ちょっとずつ胸に落とすんです。で、吐くときは、ゆっくり。……こうやって」
細く、長く。男の口から煙が流れ出ていく。
俺は涙目のまま、言われたとおりにもう一度くわえた。口に溜めて、少しずつ胸に落として。
そして、ゆっくりと吐く。
白い煙が、目の前でほどけていく。その煙と一緒に、胸の奥に突っかかっていたものまで、少しだけ外へ出ていく気がした。
「そうそう、上手いじゃないですか」
男は満足そうに頷いて、それから少しだけ声を落とした。
「次は、思いっきり吐いてみてください。……なんか、疲れも一緒に出ていくような気がしませんか?」
言われるまま、もう一度深く吸い込んで、腹の底から息を押し出した。煙が勢いよく灰色の空へ昇っていく。
肩から、力が抜けた。
いつからこんなに強張っていたのか、自分でも分からなかった。何日も、何十日も、ずっと縮こまっていた体が、煙と一緒にほどけていく。
頭の芯が、じんわりと痺れる。いつまで続くんだろう。負けたら家族が。頭の中をぐるぐる回っていた考えが少しだけ遠のいて、輪郭がぼやけていく。
まずい。喉は痛いし、煙たい。歯にまで煙がまとわりついて、口の中がずっと苦い。
それなのに。
「……なあ。これ、なんなんだ? 薬なのか?」
男は一瞬だけ、煙の向こうで目を細めた。
「薬じゃないですよぉ。なーんにも治しません」
それから、いつものへらりとした顔に戻って、指先の一本を軽く振った。
「ただ、ちょっとだけ、前に進めるようになるだけです」
治さない。なのに、進めるようになる。意味は、よく分からない。けれど、胸の軽さだけは、本物だった。
「……じゃあさ、もう一本くれよ」
「あはは、気に入ってもらえて何よりです」
気づけば、周りの連中も男を囲んでいた。むせる者、涙目で笑う者、黙って煙を見つめる者。トマなんか、初めての一本で、ぽっかりと煙の輪を浮かべてみせた。
塹壕の中で笑い声を聞いたのは、ずいぶん久しぶりだった。
男は荷台の木箱を閉めると、また奇妙な乗り物にまたがった。
「じゃ、また来ますね〜」
「また来るのかよ」
「来ますよぉ。……いやぁ、今日は静かでいいですね〜」
そう言い残して、男はカラカラと音を立てながら、塹壕の奥へ去っていった。
静か、だと。撃たれるのが怖くて、誰も頭を上げられないこの場所が。
俺は指に挟んだ吸いさしを見下ろして、もう一度だけ、男が消えた方を振り返る。
曲がり角の手前で、男が乗り物を止めている。こちらに背を向けたまま、ゆっくりと煙を吐いている。
その横顔は、もう笑っていなかった。
次回「煙が晴れたら、そこは戦場だった」 続けて公開しています。




