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煙屋のジャン 〜異世界の塹壕で、僕は今日もタバコを配る〜  作者: mickmick893
第一章 もう一本くれよ
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第10話 「お前、本当は笑ってないだろ」

フローリア暦二一四年 十月十三日


夜が白みはじめた頃、上官は僕をテントの前まで引き戻した。

長いこと、黙って僕を見ていた。それから、口を開いた。

「……疑いが晴れたわけじゃない。俺の目の届くところにいろ」

縄は、解かれなかった。けれど、杭からは外された。

僕は、少しだけ首をかしげた。

「あの〜、タバコのお代は?」

上官の眉が、ぴくりと動く。

「人形にくわえさせた分、結構な本数なんですよぉ。上物でしたし」

長い沈黙。

「……敵に請求しろ」

それだけ言って、上官はテントの中へ消えた。

僕は、縄のかかった手のまま、少しだけ笑った。

今度の笑顔は、勝手に貼りついたものだったのか、そうでなかったのか。自分でも、よく分からなかった。

 

朝の塹壕は、妙に騒がしかった。

昨夜の話が、もう広まっているらしい。煙をくわえた人形で、敵の狙撃手を三人も黙らせた。考えたのはニコルで、タバコは煙屋のものだった。

縄のかかった僕の前を、兵士たちが通り過ぎていく。何人かは、すれ違いざまに小さく頭を下げた。昨夜、壁の上へ身を乗り出していった顔だった。

けれど、全員がそうではない。少し離れたところから、じっと僕を見ている目もある。間者かもしれない男を、上官はなぜ生かしておくのか。そう言いたげな目。

「ジャン!」

見張りの目を盗んで、ニコルが駆け寄ってきた。懐から、固いパンを一切れ取り出して、僕の縛られた手に押しつける。

「食えよ。昨日から何も食ってないだろ」

「ありがとうございます〜。でも、これ、ニコルさんの分じゃないんですかぁ?」

「いいんだよ。俺、昨日すげえ働いたから、腹いっぱいなんだ」

意味の分からない理屈。ニコルは、それから声を潜めて、得意げに笑った。

「なあ、見たろ。あの人形、俺が考えたんだぜ」

「見ましたよぉ。上物が、木っ端みじんでした」

「まだ言ってんのかよ」

ニコルは吹き出して、それから少しだけ真顔になった。

「上官さ、なんにも言わなかったんだ。勝手なことすんなって、殴られると思ってたのに」

そう言い残して、ニコルは持ち場へ戻っていった。

 

縄は、昼過ぎに解かれた。見張りの兵が一人、少し離れたところから僕を見ている。それが、上官の言う「目の届くところ」らしかった。

塹壕の奥へ歩いていくと、崩れた壁の前に、ロドリゴがいた。

トマが死んだ場所だった。

ロドリゴは、壁に背を向けることもなく、ただそこに立って、煙を吐いている。足元には、吸い殻がいくつも落ちている。乾いた咳を一つして、また吸う。

ふと、ロドリゴは、煙草を持っていないほうの手を見下ろした。開いて、握って、また開く。

あの手で、トマの足をつかんだのだ。

声をかけようとして、やめた。かける言葉を、僕は何ひとつ持っていなかった。

 

夕方、僕は昨夜の場所へ戻った。

土嚢の人形は、ほとんど原形をとどめていなかった。兜は弾け飛び、杭の腕は折れ、泥の上に崩れている。その周りに、タバコがいくつも散らばっている。

しゃがみ込んで、一本ずつ拾い上げる。

燃え尽きたもの。泥に浸かって、ふやけたもの。半分だけ焦げて、途中で火の消えたもの。

まだ、吸えるものもある。

指先で泥を払いながら、昨夜のことを思い出していた。橙色の光。弾け飛ぶ兜。二度と瞬かなくなった闇。

心を軽くするために作ったものが、誰かを撃つための餌になった。

「……まだ、吸える」

誰に言うでもなく、つぶやいた。

ふと、視線を感じて顔を上げた。

ロドリゴが、少し離れた壁にもたれて、こちらを見ている。いつから、そこにいたのか分からない。

頬に、笑顔が貼りつく。

「あ、ロドリゴさ〜ん。見てくださいよ、これ。まだ吸えるんですよぉ。もったいないですよねぇ」

ロドリゴは、答えなかった。

ゆっくりと近づいてきて、僕の前にしゃがみ込む。乾いた目が、僕の顔をまっすぐ見ている。

「……さっきまで、そんな顔してなかっただろ」

ロドリゴの視線が、僕の手元に落ちた。中指と薬指のあいだの一本に。

「吸うとき、いつも口を隠してるだろ。その妙な持ち方で」

責めるような声ではなかった。

「お前、本当は笑ってないだろ」

頬に貼りついた笑顔が、そのまま固まった。

何か言わなければ、と思った。いつものように、間延びした声で、冗談で流してしまえばいい。いつもなら、それができた。

言葉が、出てこなかった。

ロドリゴは、それ以上何も聞かなかった。黙って自分の一本に火をつけ、ひと口だけ吸うと、それを僕の前に差し出した。

「ほら」

いつも、渡す側だった。

僕は、泥だらけの指で、それを受け取った。

答えのかわりに、僕はただ、煙を吐いた。

次回「苦いビールと、不味い煙」 本日21時10分更新です。

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