第10話 「お前、本当は笑ってないだろ」
フローリア暦二一四年 十月十三日
夜が白みはじめた頃、上官は僕をテントの前まで引き戻した。
長いこと、黙って僕を見ていた。それから、口を開いた。
「……疑いが晴れたわけじゃない。俺の目の届くところにいろ」
縄は、解かれなかった。けれど、杭からは外された。
僕は、少しだけ首をかしげた。
「あの〜、タバコのお代は?」
上官の眉が、ぴくりと動く。
「人形にくわえさせた分、結構な本数なんですよぉ。上物でしたし」
長い沈黙。
「……敵に請求しろ」
それだけ言って、上官はテントの中へ消えた。
僕は、縄のかかった手のまま、少しだけ笑った。
今度の笑顔は、勝手に貼りついたものだったのか、そうでなかったのか。自分でも、よく分からなかった。
朝の塹壕は、妙に騒がしかった。
昨夜の話が、もう広まっているらしい。煙をくわえた人形で、敵の狙撃手を三人も黙らせた。考えたのはニコルで、タバコは煙屋のものだった。
縄のかかった僕の前を、兵士たちが通り過ぎていく。何人かは、すれ違いざまに小さく頭を下げた。昨夜、壁の上へ身を乗り出していった顔だった。
けれど、全員がそうではない。少し離れたところから、じっと僕を見ている目もある。間者かもしれない男を、上官はなぜ生かしておくのか。そう言いたげな目。
「ジャン!」
見張りの目を盗んで、ニコルが駆け寄ってきた。懐から、固いパンを一切れ取り出して、僕の縛られた手に押しつける。
「食えよ。昨日から何も食ってないだろ」
「ありがとうございます〜。でも、これ、ニコルさんの分じゃないんですかぁ?」
「いいんだよ。俺、昨日すげえ働いたから、腹いっぱいなんだ」
意味の分からない理屈。ニコルは、それから声を潜めて、得意げに笑った。
「なあ、見たろ。あの人形、俺が考えたんだぜ」
「見ましたよぉ。上物が、木っ端みじんでした」
「まだ言ってんのかよ」
ニコルは吹き出して、それから少しだけ真顔になった。
「上官さ、なんにも言わなかったんだ。勝手なことすんなって、殴られると思ってたのに」
そう言い残して、ニコルは持ち場へ戻っていった。
縄は、昼過ぎに解かれた。見張りの兵が一人、少し離れたところから僕を見ている。それが、上官の言う「目の届くところ」らしかった。
塹壕の奥へ歩いていくと、崩れた壁の前に、ロドリゴがいた。
トマが死んだ場所だった。
ロドリゴは、壁に背を向けることもなく、ただそこに立って、煙を吐いている。足元には、吸い殻がいくつも落ちている。乾いた咳を一つして、また吸う。
ふと、ロドリゴは、煙草を持っていないほうの手を見下ろした。開いて、握って、また開く。
あの手で、トマの足をつかんだのだ。
声をかけようとして、やめた。かける言葉を、僕は何ひとつ持っていなかった。
夕方、僕は昨夜の場所へ戻った。
土嚢の人形は、ほとんど原形をとどめていなかった。兜は弾け飛び、杭の腕は折れ、泥の上に崩れている。その周りに、タバコがいくつも散らばっている。
しゃがみ込んで、一本ずつ拾い上げる。
燃え尽きたもの。泥に浸かって、ふやけたもの。半分だけ焦げて、途中で火の消えたもの。
まだ、吸えるものもある。
指先で泥を払いながら、昨夜のことを思い出していた。橙色の光。弾け飛ぶ兜。二度と瞬かなくなった闇。
心を軽くするために作ったものが、誰かを撃つための餌になった。
「……まだ、吸える」
誰に言うでもなく、つぶやいた。
ふと、視線を感じて顔を上げた。
ロドリゴが、少し離れた壁にもたれて、こちらを見ている。いつから、そこにいたのか分からない。
頬に、笑顔が貼りつく。
「あ、ロドリゴさ〜ん。見てくださいよ、これ。まだ吸えるんですよぉ。もったいないですよねぇ」
ロドリゴは、答えなかった。
ゆっくりと近づいてきて、僕の前にしゃがみ込む。乾いた目が、僕の顔をまっすぐ見ている。
「……さっきまで、そんな顔してなかっただろ」
ロドリゴの視線が、僕の手元に落ちた。中指と薬指のあいだの一本に。
「吸うとき、いつも口を隠してるだろ。その妙な持ち方で」
責めるような声ではなかった。
「お前、本当は笑ってないだろ」
頬に貼りついた笑顔が、そのまま固まった。
何か言わなければ、と思った。いつものように、間延びした声で、冗談で流してしまえばいい。いつもなら、それができた。
言葉が、出てこなかった。
ロドリゴは、それ以上何も聞かなかった。黙って自分の一本に火をつけ、ひと口だけ吸うと、それを僕の前に差し出した。
「ほら」
いつも、渡す側だった。
僕は、泥だらけの指で、それを受け取った。
答えのかわりに、僕はただ、煙を吐いた。
次回「苦いビールと、不味い煙」 本日21時10分更新です。




