第11話 苦いビールと、不味い煙
フローリア暦二一四年 十月十三日
眠れなかった。
上官のテントのそばに敷いた外套の上で、何度か寝返りを打って、諦めた。見張りの兵は、少し離れた木箱にもたれて、うとうとしている。
壁際にしゃがみ、ロドリゴに教わったとおりに火を隠して、ゆっくりと煙を胸に落とす。
テントの布が、ばさりと揺れた。
上官が出てくる。手に、あの瓶を提げている。
隠そうとはしなかった。僕と目が合っても、瓶を背に回すこともなく、黙って近くの木箱に腰を下ろした。恰幅のいい体の重みで、木箱がぎしりと鳴る。
しばらく、どちらも口を開かなかった。
遠くで、ときおり何かが破裂する音がする。僕は煙を吐き、上官は瓶をあおった。
やがて、上官が、瓶をこちらへ突き出した。
一瞬、意味が分からなかった。それから、受け取った。
口をつけて、ひと口。ぬるくて、泡はとうに消えている。それでも、鼻に抜ける麦の匂いで分かった。ビールだ。
「……苦い」
思わず、顔をしかめていた。前の世界でも、どうしても好きになれなかった味だ。
上官は何も言わずに瓶を取り返した。
僕は、箱から一本を抜いて、差し出した。
上官は、長いこと、それを見ていた。それから、太い指でつまみ上げ、外套の陰で火を覆った。慣れた手つき。この人も、火の隠し方は知っている。
ひと口、吸い込む。
喉の奥で、咳をこらえる音。
「……不味い」
そう言いながら、上官は吸いさしを捨てなかった。指で火を揉み消すと、残りを、胸のポケットにそっとしまった。
相手の支えは、自分には苦くて不味い。
それでも、それがないと立っていられないことだけは、分かる。
瓶を見下ろしたまま、上官が言った。
「……あいつらは、吸った後のほうが、よく動いた」
独り言のような声。
「禁令は、解かん」
「はい」
「……ただ、俺は夜目が利かん」
僕は、少しだけ笑った。考えるより先に、もう笑っていた。
上官は、最後にもう一つだけ言った。
「トマは、壁の補修中の事故だ。……そう書いて、上げた」
それきり、上官は何も言わなかった。
「人形を、増やせ」
翌朝、上官はそれだけ言った。
増やせと言われても、土嚢は重い。一体こしらえるだけで、腕が抜けそうになる。あちこちの持ち場へ運んで回るなんて、とても無理だ。
もっと軽い骨組みが要る。棒でも、鉄くずでも、なんでもいい。
ジャンの乗り物を作ったのは、街外れの鍛冶屋だと聞いたことがあった。
街へ続く道に出るのは、何か月ぶりだろう。
泥がない。足を取られない。踏みしめるたびに、乾いた土がこつこつと鳴る。
見上げた空には、煙が一本も上がっていない。塹壕から見る、四角く切り取られた灰色じゃない。どこまでも続く、薄い青。
フローリアは、花の国と呼ばれている。道の両脇には、戦争なんか知らない顔で、小さな黄色い花が揺れていた。
畑の脇で、子どもが二人、棒きれを振り回して遊んでいた。兵隊ごっこらしい。俺を見つけると、ぴたりと止まって、目を輝かせて敬礼してきた。
俺は、曖昧に手を上げて返した。
兵隊になりたいなんて、思ったことは一度もない。ほかに仕事がなかっただけだ。村に残っても食えない。家族に金を送るには、これしかなかった。
敬礼なんて、されるような者じゃない。
それでも、戻る場所は塹壕しかなかった。
鍛冶屋の親父は、噂どおり、無口で腕の太い男。用件を話すと、親父は黙ったまま、ひくりと鼻を動かした。
「……お前、ジャンの知り合いか」
「なんで分かるんですか」
「その匂いだ」
外套に染みついた、あの甘い煙の匂い。こんなところにまで、ついてきていた。
「あいつは、来るたびに一本置いてく。礼のつもりらしい」
親父はそれだけ言って、炉の火に目を戻した。
「俺も黙って吸う。あいつも黙って吸う。それで終わりだ」
喋らない者同士の付き合い、というやつらしい。ここでのジャンは、「どうも〜」と笑ったりしないのかもしれない。
笑わないジャンを、俺はうまく想像できなかった。
親父は、面倒くさそうに顎で裏手を示した。
「裏に廃材が転がってる。好きに持ってけ」
裏の廃材置き場は、錆びた鉄くずの山。折れた槍の柄、曲がった鍋、穴の空いた盾。使えそうな棒を探して、がらくたを掻き分けていく。
その奥に、それはあった。
二つの輪を、細い骨組みでつないだもの。錆が浮いて、泥をかぶっている。けれど、見間違えるはずがなかった。
「……これ、ジャンのと同じじゃねえか」
引っぱり出そうと手をかけると、どこかで、小さく軋む音。
背後から、親父の声が飛んできた。
「そいつは、ジャンが置いてったもんだ。……直してないって言ってたぞ」
直してない。
なら、直せばいい。
俺は、錆びた握りをつかんで、それを廃材の山から引きずり出した。
次回、幕間「煙屋の手帳」 続けて公開しています。




