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何を要求されるのだろう、と半ばそわそわした気持ちが抑えられない。北上くんは日頃口数が多くいろんなことを喋ってはいるが、その大半はくだらない内容として流されていることが多い。そのため、彼が畏まった形で何かを要求するという機会は、意外と滅多にないことだった。
「待って待って……北上くんのマジで要求したいことって何? ちょっと怖くなってきた。だって北上くんさ……」
「それ」
少々動揺し出す私の言葉に、被せ気味に北上くんは言った。
「いつまで“北上くん”なんだよ。俺の下の名前、知らねえのかよ」
「え……?」
「俺はお前のこと“律子”って呼んでるのに」
誰彼構わず相手のことを下の名前で呼ぶ北上くんは、確かに初対面時から私のことは“律子”と呼んでいた。それはそれで疑問のある距離感だとは思う。
それでも指摘の通り、付き合って間もなく一ヶ月が経とうとしているのに未だに彼を“北上くん”と呼んでいるのも、またもどかしいものがある。
ただ、いざ呼び名を変えようとすると、何となく気恥ずかしさが先立ってしまうのだった。
「下の名前は、知ってるけど……」
「じゃあ問題ねえな。今回の弁当に関する見返りはそれでいいよ」
お弁当の見返りに名前を呼ぶというのは、良心的な取引きなのかどうか不明だけれども、北上くんは事もなげに言う。
それでもなお、何ともこそばゆい気持ちで私は尻込みしていた。
すると、わざと目線を下げている私の顔を覗き込むようにして、北上くんが少し声のトーンを落として、駄目押しのように言葉を続ける。
「だから呼んでくれよ、俺の名前」
北上くんの目には、ある意味では圧力といっても良いほど強い吸引力がある。
そして、これは私の弱点になるのだけれども、相手の態度が高圧的だと反発したくなる反面、弱っていたり下手に出られると、何かと放っておけない気持ちになってしまうのだ。チョロいといわれても仕方がない悪癖である。
味を占められると正直困るのだけれども、今も私は北上くんからのお願いに応じたい思いに駆られていた。
小恥ずかしい気持ちでいっぱいだったけれども、深く呼吸を繰り返して踏み出す準備を整える。
でも、目を見ながら口を開く勇気はなくて、私は両手で顔を覆った。
そして。
「………………稔貴くん」
意を決してから声に出すまで、かなり長い沈黙があったように思う。しかも漸くその名を呼んだ声は、消えそうなくらいの掠れ声だった。情けないことこの上なし。でも、間違いなく呼んだ。甘く擽られるような感覚が、自分の口元に微かに残っている。
そんな私の有様を見て北上くんは笑うだろうと思うと、身体じゅうがむず痒くなるくらいの恥じらいを覚えた。
けれども、いつまでも顔を隠していても仕方がないので、覚悟を決めて両手を外して彼の反応を窺う。
すると、そこで目にしたのは。
「え……ちょっと、どうしたの……?」
私は思わず面食らった。
直前まで平然としていた北上くんが、何故か机に突っ伏して半ば悩ましげに呻いていたのだ。
暫しの間「うー」とか「あー」とか発声した後、北上くんは押し殺すような声で言った。
「…………可愛過ぎんだろうよ……」
今まで北上くんの口から聞いたことのない言葉に、見たことのない初心な態度。可愛過ぎるのはどっちかと問いただしたくなるけれども、何だかレアなものを見た嬉しさに思わず口元が緩んだ。
「もう、自分で言わせておいて、何でそんなにダメージ食らってるの? ちょっと、北上くん……稔貴くん!」
「ああ、くそ……っ! しくじった……俺には早かった」
なお顔を伏せたまま、悔しそうにわけの分からないことを言っている。
そんな彼をもう少し深追いしたくもなったけれども、せっかく作ってくれたお弁当の存在を思い出して、私は一足先に切り替えることにした。
先に食事を続けている旨を伝えて、再び箸を手に取る。卵焼きをつまんで口に運ぶと、甘く焼いた風味が舌の上に広がった。
それも含め、味わうおかず一つ一つについて、「美味しい」と伝えながら食べていると、
「……そうだろ」
と、北上くんは――稔貴くんは、赤みの残る顔を上げて強気な態度を装いながら、私と同じ彩りの食事の続きを始めるのだった。




