↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
5/22

十年間の重さ

 深紫の蝋が、甘く重い匂いを放っていた。


 外交局が人事辞令にだけ使う封蝋の色だ。十年間、この蝋を溶かして何十通もの辞令書を作成してきた。自分の名前宛てに受け取ったのは、今朝が初めてだった。


 封を切った。


「午前第三刻、局長室に出頭のこと——」


 末尾に「立会人 ガルシア・モンターニュ補佐官」の名が添えてある。


 昨夕、局長室の扉の隙間から漏れたヴィクトルの声が蘇った。


「好きにしろ」


 ——あの一言が、一晩かけて辞令の形になった。


 インク瓶の蓋には触れなかった。


「……開ける前に」


 終わりを告げられに行く。



 廊下を歩いた。


 午前第三刻の日差しが窓硝子の桟《さん》を通して石畳に菱形の影を落としている。この影を踏んで局長室まで歩く道のりを、十年分の身体が覚えていた。


 書記官とすれ違った。壁際に一歩ぶん多く寄り、目だけがこちらを追って、すぐに逸れた。


 背後で囁きが漏れた。


「——今朝の辞令、セラフィーナ様の……」


「しっ」


 もう知っている。


 局長室の前で足を止めた。扉の向こうから整髪油の匂いが染み出している。深く息を吸って、ノックした。



「入れ」


 扉を開けた。整髪油の甘さが一段濃くなった。


 ガルシアが窓際の椅子に腰掛けている。膝の上に書類の束。


 ヴィクトルは執務机の向こう——窓を背にして座っていた。逆光が表情を翳《かげ》らせている。暖炉に火は入っていない。九月の朝にしては、部屋が冷えていた。


 言いにくいことを言う時、この人は窓を見る。今日は窓を背にした。目を合わせない方法を変えただけだ。


「座ってくれ」


 指示された椅子に腰を下ろした。ガルシアとの距離は三歩。ヴィクトルとの距離は執務机ひとつぶん。


 十年前、初めてこの部屋に通された日と同じ距離だった。


「単刀直入に言う」


 ヴィクトルが机の上の書類に手を伸ばした。指が一瞬止まり——すぐに取り上げた。


「外交局の業務体制を見直すことにした。セラフィーナ、君の秘書としての職務を本日付で解く」


 懐の鍵が肋骨に当たる角度で沈んだ。


「あわせて——」


 ヴィクトルの視線が窓硝子に逃げた。


「——婚約についても、解消させてほしい」


 沈黙が落ちた。壁に掛けた大陸地図の隅が、どこからか入る風にかすかに震えていた。それだけが、この部屋で動いているものだった。


 指と指を膝の上で組み合わせた。爪の先が白くなるまで力を込めたが、その手は机の下にある。誰にも見えない。震えが治まるまで、三つ数えた。


 知っていた。


 昨夕の「好きにしろ」を聞いた時から。いや——引き出しが指一本ぶん開いていた朝から、すべての点をつなぐ線はとうに見えていた。


 それでも、予見と受け取ることは違う。


「遺憾の意を表します」


 ——書簡で何百回も書いてきた言葉だ。遺憾が実際に胸の底まで落ちてくる重さを、今はじめて知った。


「……理由をお聞かせいただけますか」


 声は平らだった。書簡の文面から感情を削ぐ訓練を十年積んだ。その技術が、今は自分の声に使われている。


「秘書の職務範囲を逸脱し、書簡方針の独断的な策定および外交上の判断に関与していた」


 ヴィクトルの声に抑揚がなかった。読み上げている。書いたのはこの人ではない。構文の硬さと断定の連なり——ガルシアの筆だ。


「婚約の解消については——個人的な判断だ。局の運営を考えると、このまま続けるのは好ましくない」


「好ましくない——」


 外交用語だ。相手を傷つけず拒絶する時の常套句を、この手で何百回も書いてきた。今度は自分が受ける側にいる。


「恐れ入りますが——独断的な策定とは、具体的にどの案件のことでしょうか」


「……全般的な話だ」


「では一例を挙げますわ。フェルゼン連合との仲裁条項——あの方針は局長殿に進言し、ご採用いただいたものです」


「報告は受けていた。だが——比重の問題だと、ここにはそう書いてある」


「職務範囲のお話でしたら、この十年、一度もお示しいただいたことはございませんわ。『好きにしろ』と——そう仰っていただいておりました」


 ヴィクトルの肩がかすかに動いた。好きにしろ。その言葉を、昨日まではセラフィーナに向けて言っていた。昨夕からはガルシアに。


「……承知いたしました。——では、十年間の功績はどなたのものとして記録されますか」


 ヴィクトルが目を伏せた。


「僕の名前で出した書簡は、僕の仕事だ」


「……署名は、事実ですわ」


 だがその一言が、十年間を要約していた。


 ヴィクトルが書類を机に置いた。用件は済んだとでも言うような手つきだった。


 ガルシアが膝の上の書類を整えた。紙の角が揃う乾いた音だけが、三人の間を横切った。


「よろしいですかな」


 ヴィクトルが小さく頷いた。


 ガルシアが立ち上がった。


「セラフィーナ嬢。長年のご尽力に感謝いたします」


 感謝、という言葉がこの男の口から落ちた。舌の上で一度も温められなかった言葉だ。


「書斎の明け渡しは本日中にお願いいたします。外交局所管の文書および書簡の控えは局の所有物です。私物のみお持ちください」


 ガルシアの口から「控え」という語が出た瞬間、北館の書庫がよぎった。あの棚に並んだ百通。だが顔には出さない。この男はあの鍵を知らない。


「なお引き継ぎは不要です。必要事項があれば書記官を通じてお伝えください」


 三千通の書簡の背景も、各国書記官の筆癖も、行間に織り込んだ暗号の鍵も——すべて不要だと。指先が椅子の肘掛けにかすかに爪を立てた。


「引き継ぎが不要ということは、後任はお決まりですか」


「局の人事です。お答えする立場にはございません」


「そうですか。では各国書記官の筆癖や交渉経緯の覚書もお返しいたしますわ。局の所有物ですもの」


「それらの文書の所在を——」


「わたくしの記憶の中です。紙にはしておりません」


 ガルシアの喉が動いた。記憶は没収できない。


「文書化していないと?」


「外交上の機微に関わる情報ですわ。紙にすれば漏洩の危険がございます——独断で判断いたしました」


 独断。先ほどの辞令の文言を、そのまま返した。ガルシアの口元から笑みが消えた。


「ご理解いただけましたかな」


「明け渡しの件は承知いたしましたわ。ただし十年分の私物がございます。明朝までの猶予をいただけませんか」


 ガルシアの眉がわずかに寄った。


「本日中と申し上げましたが——」


「明朝でいい」


 ヴィクトルが短く言った。書類から目を上げなかった。


 ガルシアの唇が薄く開いて、閉じた。


「……かしこまりました。では明朝まで」


 セラフィーナが立ち上がりかけた時だった。


 ガルシアが一歩、踏み込んだ。見下ろす角度で、声を落とした。唇の端がわずかに上がっている——十年かけて待った順番が、ようやく来た男の顔だった。


「セラフィーナ嬢。最後にひとつだけ」


 整髪油の匂いが、呼吸をふさぐほど近かった。


「代筆係ごときが——出過ぎた真似をなさっていたのですよ」


 ガルシアの目が細くなった。笑みの形をしていた。


「もう少し早くお気づきになれば、こうはならなかったでしょうに」


「婚約者の立場を利用して局内で立ち回る——側近たちは皆、見ておりましたぞ」


 出過ぎた真似。


 ——三千通を書いたことが、出過ぎた。


 立ち上がった。椅子の脚が石床にひと筋の線を引いた。


「ご忠告痛み入りますわ、ガルシア補佐官殿。——側近の方々がご覧になっていたのは、わたくしではなく書簡ですわ。あの署名の裏に何があったか」


 微笑んだ。声も唇も震えなかった。胸の底では三千通ぶんの怒りが燃えていたが、表には笑みだけを乗せた。十年の外交が鍛えた仮面が、最後にいちばんよく働いた。


 ヴィクトルに向き直った。


「十年間お世話になりましたわ、局長殿」


 ヴィクトルは窓硝子に映る自分の顔を見ていた。口が開きかけて、閉じた。右手が書類から離れ、一瞬だけ宙を探るように動いて——机の上に戻った。


「……ああ」


 一礼して、扉に手をかけた。


「よい一日を、セラフィーナ嬢」


 背中でガルシアの声がした。含み笑いを隠しもしなかった。


 扉を閉めた。


「……終わった」


 廊下の冷気が頬に触れた。


 角を曲がったところで足が止まった。書記官の一人が壁際に立っていた。先日、何か言いかけて飲み込んだ書記官だ。


 目が合った。書記官が小さく頭を下げた。


「セラフィーナ様——」


 声が途切れた。目が赤かった。


「あの——今までの書簡は、全部、あなたが」


「それを言いに来てくれたの」


「局の者は——皆、知っております。誰が書いていたか」


 セラフィーナは微笑んだ。今日何度目かの微笑みだった。


「ありがとう。——お仕事に戻って。わたくしのことは気にしなくて大丈夫よ」


 書記官が深く頭を下げた。セラフィーナは通り過ぎた。



 書斎の扉を閉めた。


 鉄胆インクの匂いに迎えられた。


「……ただいま」


 十年間、毎朝この匂いに迎えられて席についた。


 書記官の態度が変わり、ヴィクトルの言葉が変わり、ガルシアが壁を迫り、居場所が日ごとに縮んでいく中で——この匂いだけは最後まで変わらなかった。


 椅子に座った。


 机の上にペンとインク瓶がある。


「これだけで、よかった」


 この二つさえあれば十年の仕事ができた。


 三千通の書簡がこの机から生まれた。通商条約の打診。同盟国への祝辞。停戦の仲裁文。和平の覚書。


「……三千通」


 声に出して数えたのは初めてだった。


 国と国をつなぐ糸の一本一本を、この指が紡いだ。


 フェルゼン連合との停戦仲裁は三日三晩を費やした。ルミエール帝国への通商書簡は先方の文化慣習に合わせて文体を何度も改めた。


「……あの仲裁文がなければ、国境の村はふたつ焼けていた」


 すべてがヴィクトルの署名で送られた。すべてがヴィクトルの功績として宮廷に刻まれた。


「……全部」


 婚約も同じだった。先王が「影の外交官を守る盾にせよ」とヴィクトルに命じた婚約——十年間、婚約者として食卓を囲んだ回数は片手で足りる。


 秘書と呼ばれ、代筆係と呼ばれた。それでも「婚約者」という名目があったからこの書斎にいられた。


 名目が消えれば居場所も消える。先王が設《しつら》えた入れ物が、ひとつ壊れた。


 十年間の重さ。


 ——辞令は、紙一枚の軽さだった。


「『職務範囲の逸脱』——ガルシアの筆ね」


 ヴィクトルの言葉ではない。だがヴィクトルはその辞令に署名した。わたくしの書いた三千通に署名してきた、あの同じ手で。


 右手を見つめた。中指のペンだこ。爪の際に染みついたインク。


「この手が——」


 この手が書いた言葉は国境を越え、条約を結び、戦を遠ざけた。


「……わたくしの、手で」


 この仕事を誇りに思う。三千通の一通一通が、わたくしの手で紡いだ外交の糸だ。


「仕事は認められるためではなく、完遂されるために——」


 十年間、自分にそう言い聞かせてきた。


 ——本当にそうだったか。


 三千通のどこかで、一度くらい自分の名前で署名したいと思わなかったか。


「……思いましたわ」


 声に出ていた。誰もいない書斎で、仮面が剥がれた。


「何度も。『セラフィーナ・ヴァルトシュタイン』と——一度だけでも、自分の名前で」


 声を荒げたかった。十年で一度だけ。あの部屋で叫びたかった。


「書いたのはわたしです」


 ——と。喉の奥が灼《や》けるように熱かった。拳を握りしめた爪の跡が、掌にまだ残っている。


 叫ばなかった。


「……叫んでも、何も変わりませんわ」


 感情を見せれば「分を弁えない女だ」と吹聴される。


「外交官は文面で戦うもの」


 声で戦えば筆の力を自ら否定する。


 だから微笑んだ。微笑んで一礼して扉を閉めた。


 その微笑みの下で、三千通ぶんの重さが胸の底で熱を持っていた。


 先王の声が遠くから聞こえた。


「この国の言葉を、お前の手に託す」


 先王はそう仰った。そしてもうひとつ。


「世に知られずとも、お前が紡いだ言葉がこの国を守る」


 あの約束は辞令では解けない。先王が崩御されて五年。先王がかつて引き合わせてくれた隣国宰相エミール——あの人とわたくしだけが、この密約を知っている。


 ヴィクトルは知らない。ガルシアも知らない。三千通に織り込まれた暗号のことも、この国の外交の本当の形も。


「知らなくてよろしい」


 声は低く、冷たかった。局長室で使わなかった声だ。


「エミール殿——わたくし、まだここにおりますわ」


 ペンに手を伸ばしかけて——止めた。


「もう、ここでは書けませんわね」


 呟きは天井に吸い込まれて消えた。


「……でも、書くことはやめませんわ」


 日が傾いた。


 西日が机を斜めに切っている。ペンの影が長く伸びて、インク瓶の根元に届いていた。


「……長い影」


 十年ぶんの影だった。


 十年間、この部屋で大人になった。


 最初の一通を書いた朝のことを覚えている。手が震えて書き損じを三枚出した。ヴィクトルは署名しながら言った。


「初めてにしては上出来だ。——ああ、今後もこの調子で頼む」


「はい。精進いたします」


 あの日の返事だった。あの言葉に嘘はなかったのだろう。嘘をつくほどの関心がなかっただけで。


 机の引き出しを開けた。予備のインクが二瓶と、削りかけのペン先が三本。


 使いかけの吸い取り紙の上に、昨日の下書きのインクが薄く残っている。


「『適切に対応のこと』——たった一行。十年をこの一行で閉じるおつもりだったのね」


 ヴィクトルの走り書きから組み立てた返書の痕跡だ。署名されることのなかった最後の一通。


 引き出しを静かに閉めた。


「……これが、最後の一通になるはずだった」


 呟いてから、首を振った。


「いいえ——最後では、ありませんわ」


「さようなら」


 机に向かって言った。立ち上がった。椅子が軋みを返した。


 部屋を見回した。棚に並ぶ参考書簡の束。壁に掛けた各国の地図。引き出しの中の予備のペン先。


 十年分の仕事道具が、西日の中で長い影になっていた。


 懐の鍵に触れた。指が鍵の歯を一本ずつ確かめるように辿った。


「……待っていてくださいね」


 北館の書庫に百通の控えが眠っている。あの棚だけは、この鍵がある限り誰にも開けさせない。


「……まだ、終わっていませんわ」


 明朝、もう一度だけこの扉をくぐる。持ち出すべきものは、私物だけではない。


 窓を閉めた。灯りを落とした。


 暗くなった書斎で、懐の鍵だけが窓の残光をひとすじ受けて、鈍く光っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。