代筆係の分際で
整髪油の残り香が、朝の廊下に貼りついていた。
昨夕のものだ。ガルシアが「人員体制のご相談」を携えて局長室へ入り、重い扉が閉まった。石壁の向こうに声は一語も漏れなかった。
セラフィーナは署名のない草稿を抱えたまま廊下に立ち、燭台に灯が入る頃、書斎に戻った。
今朝。都の鐘が五つ鳴る前に書斎の扉を開けた。鉄胆インクの匂いだけが変わらない。
いつもならこの匂いに迎えられるだけで手が動き出す。今朝は、匂いだけでは足りなかった。
昨夜の草稿を机に広げた。フェルゼン連合への返書——仲裁条項と関税率を絡めた方針で書いたもの。署名欄は空白のまま、インクが一晩かけて紙の繊維に沈みきっていた。
実務に取りかかろうとした時、ノックがあった。
「局長がお呼びです」
書記官の声に、おはようもセラフィーナ様もなかった。用件だけを扉越しに残して、足音が遠ざかった。
局長室の扉を開けた。
ヴィクトルは執務机の向こうに座っていた。窓が閉じている。いつもなら朝一番に開け放つ窓だ。
硝子越しの朝日が書類を白く照らし、その光の中にヴィクトルの横顔がある。
机の端に昨夜の燭台が残っていた。蝋燭は半ば以上溶け落ちて台座に凝固している。遅くまでこの部屋に灯りがあった——そして、誰かと向き合っていた痕だ。
「おはよう。昨日の草稿、持ってきたか」
「はい、局長殿。署名をお願いしたく参りましたわ」
草稿を差し出した。ヴィクトルは受け取り、一行目に目を落とした。
以前なら手を伸ばしてすぐ署名をした。「任せる」の一言で。今朝は違う。指が行を追い、一段ずつ下りていく。
紙がかすかに鳴る音だけが、閉め切った部屋を行き来した。
「仲裁条項の人選についてだが」
ヴィクトルが草稿の一箇所を指で押さえた。
「ルミエール帝国寄りの候補を入れるかどうかは僕が判断する。草稿に先回りして書き込まないでくれ」
インクの染みが残った爪先を、反対の手が一瞬だけ覆った。
「承知いたしましたわ」
「先日の関税率の段階引き下げについてもだ。——方針は僕が出す」
方針は僕が出す。
——十年、方針が出てきたことは一度もなかった。
「君は——」
ヴィクトルの視線がセラフィーナの手元をかすめ、机上に戻った。
「君の仕事は、僕の指示通りに書くことだ」
窓硝子の向こうで鳩が飛び立った。羽音だけが、凍った空気の縁をかすめて遠ざかっていった。
「……承知いたしましたわ、局長殿」
「あくまで確認だよ。君の能力を疑っているわけじゃない」
ヴィクトルは窓の方を見た。閉じた硝子に映る自分の顔を確かめるように。昔からそうだ。言いにくいことを言う時、この人は窓を見る。
微笑もうとした。唇が形を作りかけて、途中で止まった。
「ありがとうございますわ」
「もう一つ。書簡の方針について、今後はガルシアにも意見を聞くことにした。局内の連携を整えたい」
「ガルシア補佐官殿が書簡の方針に携わられるのですか」
「おかしなことではないだろう」
ペンだこのある中指が、膝の上でスカートの布を一度だけ掴んだ。
「もちろんでございますわ」
「フェルゼンの件は署名しておく。ルミエールへの返書は骨子を僕がまとめるから、少し待ってくれ」
「承知いたしましたわ。ルミエール帝国の宰相府は返書の期限を設けてまいります。骨子はいつ頃いただけますでしょうか」
「……夕方までには出す」
「かしこまりましたわ。——期日が迫った案件は、従来通りわたくしの判断で着手してもよろしいでしょうか」
「いや。必ず僕を通してくれ」
「すべての書簡をですか」
「そうだ。——念のためだ」
ヴィクトルが青胆インクのペンを取った。草稿に「ヴィクトル・レーヴェンハルト」の名が流れるように刻まれていく。
十年間、何百回も見た署名だ。筆跡は変わっていない。変わったのは、署名されるまでに交わされる言葉のほうだ。
ヴィクトルが吸い取り紙でインクを押さえた。手際よく、次の書類に手を伸ばす。十年分の仕事の再定義が、これだけの会話で済むのだ。
「他に何かあるか」
「いいえ。失礼いたしますわ」
署名された草稿を受け取り、一礼して局長室を出た。
廊下に出た途端、整髪油の匂いが鼻を突いた。
ガルシアが壁際に立っていた。書類を持っていない。手を後ろに組み、廊下を見下ろすように顎を上げている。
待っていたのだ。仕掛けた駒の行き先を確かめに。
「おはようございます、セラフィーナ嬢。局長とお話でしたか」
「ええ。署名をいただきに参りましたわ」
「署名を。——大変ですねえ、代筆のお仕事も」
代筆。
——署名だけの人間が、書いた人間をそう呼ぶ。
「恐れ入りますわ」
「今後は書簡の方針を局長と私で詰めてからお渡ししますので。お手間はおかけしませんよ」
「ご配慮痛み入りますわ」
微笑んだまま一拍置いた。
「——その手順にも、交渉の余地はございますの」
ガルシアの笑みが一瞬だけ剥がれた。細くなった目の奥で何かが動き、すぐに元の顔が戻った。
「局長のご決定ですから。代筆は代筆の領分を守っていただければ、局内も丸く収まります」
「分を弁えよ、というご趣旨ですわね」
「そこまでは申しておりませんよ。親切で申し上げている」
「ええ。ガルシア補佐官殿のご親切には、いつも感服いたしますわ」
「……ご理解いただけるなら、わたしも安心です」
一礼して歩き出した。ガルシアが半歩だけ壁に寄る。通れる幅だが、昨日までの距離ではない。すれ違う瞬間、整髪油の甘さが鼻を掠めた。
書斎の扉を閉めた。
鉄胆インクの匂いに包まれる。この匂いの中に十年いた。
机に着き、署名された草稿を脇に置いた。新しい紙を引き出し、ペンを取ろうとして——指がペン軸の手前で止まった。
ルミエール帝国への返書はヴィクトルの骨子を待てと言われた。フェルゼン連合の次の交渉もガルシアとの「連携」を経てから。
同盟国への季節の祝辞なら書ける。だがそれは書記官が担う仕事で、手を出せばまた「出過ぎた」と言われるだろう。
ペンを机に置いた。
十年間、この手がペンを握らなかった朝はない。熱があっても書いた。指を切っても書いた。
先王が崩御された翌朝も、涙の跡が残った紙を退けて新しい一枚に向かった。
今朝、ペンは机の上で横たわっている。朝日の中で。
ガルシアが何を吹き込んだか、一字一句は知らない。だが輪郭は見える。
「代筆係の分際で外交に口を出している」——そう囁いたのだろう。そしてヴィクトルは、その言葉の重さを量る前に、波風の大きさのほうを量った。
昨夕、廊下に立った時から分かっていた。ガルシアが何を囁き、ヴィクトルがどう受け止めるか。十年の蓄積が答えを持っていた。
「好きにしろ」と言うだろう、と。面倒を嫌うこの人は、ガルシアの進言を聞き流すだろう、と。
だが聞き流さなかった。「面倒」の所在が変わっていたのだ。
ガルシアの進言を退けて波風を立てるより、セラフィーナの裁量を削って穏便に収めるほうが——この人にとっては、楽だった。
十年間、楽をさせてきたのはこの手だ。
その手を持つ人間が、いつの間にか「面倒」の側に移された。
知っていた。知っていたのに、痛い。
予見は鎧にならない。「こう来る」と読めていても、実際に声で告げられれば、胸の奥で何かが軋む。
十年前の最初の朝、ヴィクトルは言った。「自由に書いてくれ」と。
あの言葉は善意だったのだろう。善意で渡された自由が、今朝、同じ善意の顔をして取り上げられた。
三千通を「指示通り」に書いたことになる。一度も指示されなかった三千通を。
昼の鐘が鳴った。書斎の窓から見える中庭に、書記官が二人、日向で話し込んでいた。こちらを見て、目を逸らした。
廊下を足音が通り過ぎた。書記官の靴音が書斎の前でわずかに速まり、通り過ぎてから元に戻る。
インク瓶の蓋は、朝から一度も開けていなかった。十年で初めてのことだった。
懐に手を入れた。北館の書庫の鍵が、体温を吸って温かい。百通の控えはあの棚に並んでいる。この鍵だけは、誰にも渡していない。
——仕事を取り上げられても、仕事の証まで奪わせはしない。
日が傾き始めた頃、ようやくノックがあった。
「失礼いたします。局長からの指示書をお持ちしました」
書記官が紙片を差し出した。
「ありがとう。——ずいぶんお時間がかかりましたわね」
「申し訳ございません。局長が……その、おまとめになるのに少々」
書記官の目が泳いだ。「少々」ではない。朝に「夕方までには」と言った骨子が、日が傾くまでかかった。
「ご苦労さまでした。下がっていいですわ」
「はい。——あの……」
「なにかしら」
書記官が口を開きかけて、首を振った。
「いえ、何でもございません。失礼いたします」
足早に去っていった。
ヴィクトルの走り書き。ルミエール帝国宛て返書の骨子だ。
「関税改定は受諾の方向で。詳細は適切に対応のこと」
紙片の半分も埋まっていない。
関税改定の受諾ひとつ取っても、段階設計や見返りの優先順位が要る。十年間この手が組み立ててきた交渉の構造が、「適切に」の三文字に圧し潰されていた。
インク瓶の蓋を開けた。鉄胆インクの匂いが一日ぶりに立ち上った。
ペンを取った。
「適切に」。この一語から書簡を組み立てるのは結局この手だ。名前が変わっても——「秘書」が「代筆」になっても——書く手は変わらない。
関税改定の受諾を、先方の面目に沿う形で整えていく。条件の提示順序を変え、文脈に帝国側の功績を散りばめた。
仲裁条項の連動は使えない。使えないなら使えないなりに、別の道を紙の上に敷く。
インクの水面がひと筋ぶん下がった頃、返書の下書きが仕上がった。署名をもらうために草稿を手に廊下へ出た。
局長室に向かう角を曲がったところで、足が止まった。
扉が細く開いている。昨夕は固く閉じていた扉だ。隙間からガルシアの声が漏れていた。
「——局長。ではこの方向で」
低い含み笑い。続いてヴィクトルの声が短く応じた。
「ああ、好きにしろ」
草稿を持つ指先が冷えた。
息が止まった。「好きにしろ」はガルシアの要求を退ける言葉であるはずだった。退ける代わりに——許した。
ガルシアの望む「方向」に、好きにしろ、と。
扉の向こうで椅子が鳴った。ガルシアの靴音が近づいてくる。弾む足取りだった。
セラフィーナは踵を返し、書斎に戻った。
草稿を机に置いた。署名欄は空白のまま。
懐の鍵に触れた。北館の書庫の鍵だけが、冷えた指先に温もりを返していた。




