補佐官の嘲笑
杉板と防虫香の匂いが、暗闇の底から這い上がってきた。
ここは書斎ではない。
ヴァルトシュタイン公爵邸の北館——家人さえ足を運ばなくなった古い書庫で、セラフィーナは革鞄の口を開けた。
都の鐘がまだ四つを数えない頃。蝋燭を一本だけ灯す。炎が揺れるたびに、杉の棚板の木目が浮いては沈んだ。
控えの束を取り出した。百通。
十年前の筆跡は今より力が入りすぎている。一画ごとに「間違えてはならない」という緊張が滲んでいた。今はもう消えている。消えたのか、骨まで染みて見えなくなったのか。
一通ずつ棚に並べた。
初めてヴィクトルの名前で送った書簡の控え。エミール宰相に最初の暗号を織り込んだ一通。フェルゼン連合との停戦仲裁文。同盟国への季節の祝辞。どれも署名欄にはヴィクトルの名が記されている。わたくしの名前は、一通にもない。
百通を並べ終えた頃、蝋燭の丈が指一本ぶん短くなっていた。三千通をすべて移すには、あと何度この道を往復するだろう。
革鞄の口を閉じ、書庫の扉に鍵をかけた。
この鍵はわたくしだけが持っている。
——ここだけは、指一本ぶんも開かせない。
引き出しに残った青胆インクの甘い匂いが、まだ鼻の奥にある。あの匂いの持ち主が誰であれ、控えをもうあの書斎には置いておけない。
外交局の東棟に着いた頃、都の鐘が五つ鳴った。
書斎に向かう廊下で、書記官が二人、窓際に立って話し込んでいた。
セラフィーナが近づくと——会話が途切れた。引きちぎったように。
二人は浅い会釈だけ残して足早に去った。つい先日まで「おはようございます、セラフィーナ様」と声をかけてきた書記官たちだ。
壁に沿って朝日の影が長く伸びている。
書斎に入った。鉄胆インクの匂いだけが、いつも通りにそこにあった。
机の上にルミエール帝国宰相府からの封書が置かれていた。飛脚鳥の早便だろう。いつもなら書記官が一声かけてから机に載せる。今朝は黙って置いていった。小さな変化だ。だが十年、同じ場所にいた者には空気の粒が入れ替わっても見える。
封を切った。通商品目の関税率改定に関する事前通告。宰相府の書記官が書いた実務書簡で、暗号は織り込まれていない。表の外交だ。
ペンを取り、返書の下書きに取りかかった。
北窓の光が机の半分を照らす頃、局長室に呼ばれた。
「これだ。フェルゼン連合からの回答が届いた」
ヴィクトルが机の上に書簡を広げた。先日セラフィーナが書いた打診状への返書だ。
「先方は寄港権と仲裁条項で譲歩の姿勢だが、関税率だけは動かないと言っている」
「拝見いたしますわ」
回答書に目を通した。フェルゼン連合の書記官独特の硬い筆致。行間に交渉の意志は残っている。ただし関税率は最後の砦だ。正面から押しても動かない。
「局長殿。関税率については直接押さず、仲裁条項の人選に絡める手があるかと存じます」
「どういうことだ」
「仲裁人の候補に先方に有利な人物を含めます。代わりに関税率の段階引き下げを呑ませる形です。先方にとっては仲裁の主導権と引き換えですから面目が立ちます」
ヴィクトルは腕を組んで天井を見た。
「……悪くないな。その方向でいこう」
「承知いたしましたわ」
「それとルミエール帝国への返書も並行して書いてくれ。関税改定の事前通告が来ているだろう」
「すでに下書きに着手しております」
「さすがだな。助かるよ、いつも」
助かる。
十年で何度聞いただろう。便箋の末尾に添える「よろしくお伝えください」と重さが変わらない。様式として口にしているだけで、中に何も入っていない。
「ところで、先ほどの仲裁条項と関税の絡めだが」
ヴィクトルが署名用のペンを手に取りながら続けた。
「どこかで聞いた覚えがあるな。僕が前に考えたことがあったか」
——わたくしが三年前のフェルゼン向け書簡で使った手法ですわ。
唇が薄く開いて、閉じた。
「以前のご経験が下地にあるのかもしれません。局長殿は交渉の勘がおありですから」
「そうか」
ヴィクトルは頷いた。自分の手柄だと疑いもしない横顔に、悪意の影は見えなかった。
セラフィーナは膝の上で指を組み直した。
整髪油の甘い匂いが、廊下に漂っていた。
局長室を出たところで、ガルシアと目が合った。廊下の窓際に立ち、書類に目を通すふりをしている——だが、こちらに向けた視線の速さが偶然を否定していた。
「セラフィーナ嬢。局長のお部屋からですか」
「ええ。書簡の件でお呼ばれいたしましたので」
「書簡の件」
ガルシアは言葉を繰り返した。味わうように。
「少々よろしいですかな」
断る理由がない。拒否は最後の手段に取っておくのが外交の鉄則だ。
「なんでしょう」
「先日のフェルゼン連合への打診状について。妥協案を二つ提示されたのは局長のご指示でしたか」
「局長のご方針に沿ったものですわ」
「不思議なことがありましてね」
ガルシアの声がひと段低くなった。
「書記官に確認いたしましたところ、あの打診状の草稿は局長からの事前指示なく作成されたそうで。筆を入れたのはセラフィーナ嬢おひとりだと」
沈黙が廊下に降りた。石壁を這うような、冷たく湿った沈黙だった。
「書簡の作成過程は局長と秘書の間の事柄ですわ。補佐官殿がお調べになるのは越権ではございませんこと?」
「越権ときましたか」
ガルシアの肩がかすかに揺れた。低い笑いが喉から漏れ、石壁に短く跳ね返った。
「わたしは局長のお名誉をお守りしたいだけです。婚約者殿が外交文書の中身に手を入れていると知れれば——局長がご自身の言葉で書簡を書いていないと疑われかねませんからね」
「書簡は局長の署名で送られております。それ以上でも以下でもございませんわ」
「おっしゃる通り。署名は局長のもの。中身も局長のもの」
ガルシアが一歩近づいた。
「——であればなおさら、あなたが中身に口を出す必要はないはず。清書だけなさればよろしい」
もう一歩。
「代筆は——代筆にとどめるべきですよ」
代筆。
右手が無意識に袖口の革カバーの縁に触れた。
ガルシアは知らないはずだ。三千通のすべてがこの手から生まれたことを。だがこの男の舌は、気づかぬまま真実の縁をなぞっている。
「ご忠告、痛み入りますわ」
「ご理解いただけるなら結構」
ガルシアが背を向けかけて、三歩目で振り返った。
「ああ。もうひとつ」
声だけが笑っていた。
「何名かの書記官から相談を受けましてね。セラフィーナ嬢が書斎にこもりきりなのは局長のお立場に障るのではないか——と」
「書記官の皆さんがわたくしの執務時間を気にかけてくださるとは。光栄ですわね」
「そう受け取らないでいただきたい。局内の目がそちらに向いているということです。わたしは親切心で申し上げている」
ガルシアの笑みが、壁の燭台の光を受けて薄く光った。
「お心遣いに感謝いたしますわ、ガルシア補佐官殿」
微笑んだまま一礼した。
ガルシアの靴音が遠ざかる。廊下の沈黙が、靴音のあった場所をゆっくりと埋めた。
書斎に戻った。
ペンを取り、フェルゼン連合への返書に向き合った。仲裁条項と関税率を絡める方針。ヴィクトルが考えたことになる方針だ。
——ガルシアは書記官から話を聞いた。
どの書記官が何を話したかは問題ではない。ガルシアが「調べている」こと自体が意味を持つ。
分相応。体面。そして名誉。
矛先は一段ずつ高い場所を狙ってきている。セラフィーナ個人への嫌味から、ヴィクトルの面目を盾にする方向へ。
この先にあるのは讒言だ。
「代筆係が外交に口を出している」——そう吹き込まれたとき、ヴィクトルはどうするだろう。
答えは、十年の積み重ねが教えてくれる。
この人は面倒を嫌う。波風を嫌う。自分の手が汚れることを嫌う。
ガルシアが「排除すべきだ」と言えば、ヴィクトルは「好きにしろ」と言うだろう。
十年間、セラフィーナに何百回も向けたのと同じ言葉を。
ペン先が一度だけ震えた。紙の上で一文字、にじんだ。
書き損じの紙を静かに退けて、新しい紙を置いた。
——書く。今は書く。仕事は完遂されるためにある。
蝋燭が半分まで燃え落ちた頃、返書の草稿が仕上がった。署名をもらいに局長室へ向かう。
廊下の角を曲がったところで、足が止まった。
局長室の扉の前に、ガルシアが立っていた。薄い書類の束を手にしている。
ノックの音が、石壁に跳ねた。
「局長。少々お時間をいただけますか。——局内の人員体制について、ご相談がございます」
草稿を持つ指先が冷えた。
扉が開き、ガルシアが中に滑り込んだ。扉が閉まった。重い木の扉越しに、声は一語も漏れてこない。
草稿を抱いたまま、セラフィーナは廊下に立っていた。
日が傾いている。廊下の影が長く伸びて、局長室の扉の足元を這っていた。
草稿の署名欄は、空白のままだった。




