署名欄の名前
翌朝、鐘が五つ鳴る前に書斎の扉を開けた。
鉄胆インクの匂いだけが迎える。昨日と同じ匂い。
だが昨日のこの時刻、ここには誰かがいた。
引き出しの前に立った。
指一本ぶん開いたまま。昨日のまま。
ゆっくり引いた。
三千通分の控えが年代順に重ねてある。封蝋の押印面を下にして収めるのが、十年間の流儀だった。
上から順に確かめた。一通目、二通目。封蝋は下向き。異常はない。
十通、二十通。指先が紙の面を撫でるように進む。
五十通を過ぎたあたりで、指が止まった。
一通だけ、封蝋が上を向いている。
取り出した。
十年前——エミール宰相に初めて暗号を織り込んだ一通だった。
先王から託された暗号外交術の出発点。この一通を読めば、暗号の存在そのものに気づける。
「……ここまで来ましたのね」
控えを元に戻し、封蝋を下向きに直した。
引き出しの取っ手の内側に指を滑らせた。何かが付いている。
匂いを嗅いだ。
甘い。鉄胆インクの鉄臭さとは違う。
青胆インク——局長室の机に常備されている、署名用のインクだ。
局長室を日常的に使う人間は、ヴィクトルとガルシアの二人だけ。
扉が叩かれた。
「セラフィーナ様。本日午後、陛下の謁見がございます。局長より同行のご準備をと」
「承知しましたわ」
引き出しを静かに閉めた。
王城の大広間は、鉄胆インクの書斎とは別の世界だった。
高い天井。白い魔法灯。大理石の床に靴音が跳ね返る。
先頭にヴィクトル。半歩後ろにガルシア。さらに一歩下がってセラフィーナが書類鞄を抱えている。
玉座の左右には重臣と各国の外交使節が居並んでいた。
「王国外交局長、ヴィクトル・レーヴェンハルト。前へ」
侍従官の声が広間を渡った。
「レーヴェンハルト卿。昨年来のフェルゼン連合との通商交渉において、卿の送った書簡は実に見事であった」
卿の送った。
「関税率、寄港権、仲裁条項の三大争点を段階的に解きほぐした手腕、大陸通商連盟の評議員からも賞賛の声が届いておる」
あの交渉の書簡を全て書いたのは自分だ。一通ごとにヴィクトルの署名が入った。
「ここに外交功労章を授与する」
「身に余る光栄でございます、陛下」
ヴィクトルが膝を折った。侍従が紺のリボンに吊り下がった銀の勲章を差し出す。
広間に拍手が広がった。
セラフィーナは壁際の随行席から動かなかった。
書類鞄の革の取っ手に力が入る。呼吸を一つ忘れた。吸い直したとき、大広間の空気は冷たかった。
列席した重臣の声が耳に届いた。
「十年もの間、文体が揺らがぬとは」
「さすがは筆の天才だ。あの文体は真似できるものではない」
——真似できない。十年かけて、手が覚えた文体だ。
拍手の音が、石の壁に当たって返ってくる。書斎で聞く雨音に似ていた。何かの外側にいるときの音だ。
「レーヴェンハルトの筆はこの国の財産だ。今後も期待する」
「はっ。臣の筆に託されたご信頼、末永くお守りいたします」
臣の筆。
三千通を書いた右手の中指が、ペンだこの上でかすかに疼いた。
謁見の間を出ると、ガルシアが先に口を開いた。
「局長、重ねてお祝い申し上げます。陛下じきじきの勲章とは外交局の誉れですな」
「ありがとう。堅い場は肩が凝る」
ヴィクトルは外套の留め具を外しながら歩いた。
「控えの間でしばらく休む。——セラフィーナ、飲み物を頼めるか」
「かしこまりましたわ」
給仕を呼んで戻ると、廊下で若い書記官とすれ違った。
「セラフィーナ様。局長のご叙勲、おめでとうございます」
「ありがとう。あなたがたの日頃のお仕事あってのことですわ」
「いえ、とんでもない。すべて局長のお力です」
微笑んだ。右手が無意識にスカートの布を掴んでいた。
控えの間に向かうと、廊下の途中でガルシアが追いついてきた。
「セラフィーナ嬢。お祝いの場にお供されるのもさぞお疲れでしょう」
「いいえ。局長のご活躍を間近で拝見できる貴重な機会ですわ」
「ご謙遜を」
ガルシアの歩調がセラフィーナに合わされた。並んで歩くのは意図的だ。
「ところで先日も申し上げましたが——局長のお傍の仕事は書記官団でも十分に回せます。書簡の管理も書庫の出入りも」
「ご提案はありがたいのですが、現状の体制で支障はございませんわ」
「支障がないのは今のことです。局長のお立場がさらに高まれば周囲の目も厳しくなる。婚約者殿が書斎にこもって書類をいじっていては体面が——」
「体面ですか」
立ち止まった。
ガルシアの笑顔が一瞬だけ固まった。
「……ガルシア補佐官殿。体面の問題でしたら、わたくしの書斎の件は局長にご判断いただきますわ。補佐官殿のご管轄外かと存じますので」
ガルシアの目が細くなった。
「……ご立派な仰りようだ。——では、局長のご判断を仰ぎましょう」
頭を下げて去っていった。
控えの間に入ると、ヴィクトルは窓辺の長椅子に腰を下ろしていた。
茶を差し出した。
「先ほどの件ですが」
「ん?」
「ガルシア補佐官がわたくしの業務を書記官に移すよう提案されております」
「ああ、あいつか。またか」
「どうなさいますか」
「どうもしない。今のままでいい。面倒を増やすな」
ヴィクトルは茶碗に視線を落としたまま、もう考えてもいない顔をしていた。
「それと午後に宰相府への返書を仕上げます。お目通しいただけますか」
「任せる。署名の時に呼んでくれ」
署名の時に。
——それだけが、あなたの仕事ですものね。
「ところで局長。書斎の鍵の件ですが、わたくし以外にお渡しになった方は」
「鍵? あの部屋に鍵はないだろう。何かあったのか」
「いいえ、念のための確認ですわ」
「ふうん。——次の書簡はいつ仕上がる」
「明朝にはお届けしますわ」
「頼む。陛下のお言葉があった以上、質は落とせんからな」
右手の指先を見下ろした。爪の際のインク染みが、蝋燭の光に黒く浮いている。
書斎に戻ると、沈黙が頬に触れた。
廊下の喧騒が遠ざかり、ペンと紙とインクだけが呼吸している。
机の上にはエミール宰相への返書の下書きが待っていた。
ペンを取った。
暗号を一語ずつ、文面の裏に織り込んでいく。
——「巣に侵入者あり」。
ペンが止まった。この一語を送れば、十年間の平穏な暗号通信が変わる。エミール宰相は動くだろう。動けば、王国外交局の内側に目が向く。
それでも書いた。「古い鍵に触れた痕跡」。
先日の「警戒せよ」は、これを予見していたのだろうか。
書き終えて、ペンを置いた。指先がかすかに冷えていた。
「……届きますように」
顔も声も知らない相手だ。けれど十年で三百通を超える暗号を交わした相手の勘が、一語の警告に凝縮されている。
蝋燭が一段細くなった頃、封蝋を施して返書を仕上げた。
窓の外はもう暗い。朝早くから宮廷に出て、一日が過ぎた。
勲章の光景がよみがえる。ヴィクトルの胸に留められた銀の輝き。あれは今頃、執務机の引き出しに放り込まれているだろう。
名前のない仕事は、署名した者のものになる。
署名した者のものであるかぎり——書いた人間は、存在しなくてもいい。
引き出しを開けた。十年前の暗号書簡の控えをもう一度取り出す。
この一通が誰かの手に渡れば、暗号外交の存在が露見する。
明日から控えは別の場所に移す。十年間ここに積み上げてきた三千通を。
どこへ。自室は書記官の目がある。書庫は鍵を共有している。
——公爵家の屋敷に、使われていない書庫がひとつある。父は中を確かめもしないだろう。
この書斎はもう、安全ではない。
閉める前に、取っ手の内側をもう一度確かめた。
青胆インクの甘い匂いが、まだかすかに残っていた。




