三千通目の朝
ペン先が紙を離れた。
鉄胆インクの匂いが指先に残る。
三千通目——十年目の朝に、きりのいい数字が揃った。
「……きりがいい」
窓の外はまだ薄明るい。石畳を掃く箒の音が、遠くの通りから登ってくる。外交局の朝は早い。都の鐘が五つ鳴る前に書斎に入るのが、十年間の日課だった。
書斎は外交局の東棟三階、廊下の突き当たり。
北向きの窓がひとつ。陽当たりは悪い。
だが書簡を書くには都合がいい。直射日光はインクを早く乾かす。
セラフィーナは書簡を持ち上げた。
北窓の光に透かす。
文字の列に乱れはない。行間も均一だ。
ルミエール帝国の宰相が好む硬質な文体。十年書けば手が覚える。
今朝の一通はフェルゼン連合への通商条約更新の打診状。
先方の不満は三つ。関税率、寄港権、仲裁条項。
三つとも正当な要求だった。
だが同時に全て譲れば王国の外交姿勢を疑われる。
だから妥協案を二つ用意した。先方に選ばせることで「勝ち取った」印象を与える。
——こういう仕掛けは、もう寝ていても書ける。
署名欄だけが空白のままだった。
そこに自分の名前が入ったことは一度もない。
封蝋の炉に火を入れたところで、扉が叩かれた。
「セラフィーナ様、局長がお呼びです」
書記官見習いの少年だった。
「ええ、すぐ参りますわ」
溶けた蝋を封じ目に垂らす。
指先に意識を集中すると、蝋の表面をかすかな光が走った。
封蝋魔法——書き手の意志で封を施す。
この蝋が無事に届くかぎり、書簡の真正は保たれる。
もっとも、この封蝋を誰が施したか知る者はいない。
右手に目を落とした。
中指にペンだこが食い込んでいる。
爪の際にはインクの染みがこびりついて取れない。十年分の仕事がこの指に刻まれている。
袖口の革カバーを外し、ドレスの袖を整えた。
書簡を手に取り、書斎を出る。
外交局長の執務室は書斎の三倍はあった。
南向きの大窓が朝日を白く弾いている。
分厚い絨毯が足音を吸い込んだ。
壁には歴代局長の肖像画が並ぶ。
その末席にヴィクトル・レーヴェンハルトの若い顔があった。
本人は窓際の大机で茶を飲んでいる。
「ああ、セラフィーナ。例の書簡か」
「はい。フェルゼン連合宛ての通商条約更新の打診状です」
「見せろ」
ヴィクトルは書簡を受け取った。
珍しく文面に目を通す——が、視線はすぐ末尾へ落ちた。
「先方の懸念は三点です。関税率、寄港権、仲裁条項」
「全部か。欲張りだな、フェルゼンは」
「三つとも正当な要求ですわ。ただし同時に全て譲れば外交姿勢を疑われます」
「それで?」
「妥協案を二つ提示して先方に選ばせる形にしました。どちらを選ばれても王国に不利はありません」
「ふむ。いつもの手だな。よし」
ヴィクトルは署名欄にペンを走らせた。
流麗な筆跡だ。署名だけは自分で書ける。
書簡の中身を十行読むのに飽きても、自分の名前は淀みなく記す。
ペンを置いた手にインクの染みはない。署名しか書かない手は、こうも綺麗なものだ。
「午後に宰相府から使者が来る。大使接見の段取りだ。過去の書簡控えを三通ほど見繕ってくれ」
「承知いたしましたわ。昨年の帝国大使接見の書簡と一昨年の通商使節への歓迎状でよろしいかと」
「ああ、任せる」
任せる。
十年でもっとも多く聞いた言葉かもしれない。
「それと、この打診状の仲裁人候補にロートリンゲン卿の名を入れてありますが」
「ああ、あいつか。好きにしろ」
好きにしろ。それも頻繁に聞く。
「ロートリンゲン卿はフェルゼン語に通じておいでです。仲裁の場で通訳が不要になりますわ」
「そこまで考えてあるのか。大したものだ」
大したもの——と口では言う。
だがその賞賛が届く先は署名欄の名前だ。
その時、扉が再び叩かれた。
「失礼いたします、局長。本日の会議案をお持ちしました」
若い書記官が書類を携えて入ってきた。
書記官の目がセラフィーナを捉え、書類がこちらへ差し出されかけた。
「私に」
ヴィクトルが手で制した。
「し、失礼いたしました」
書記官は慌てて向きを変え、局長の机に書類を置いた。
「——それと局長、昨晩の陛下のお言葉は局内でも大変な評判でして」
「ほう、もう広まったか」
「ええ。陛下じきじきに外交文書をお褒めになるとは。さすがでございます」
「はは、ありがたいことだな」
書記官がセラフィーナに軽く会釈して退室した。
その会釈は「局長の婚約者」に向けたものだ。
「書簡を書いた人間」に向けたものではない。
ヴィクトルが茶を手に取りながら口を開いた。
「ありがたい話だよ。陛下に直々にお褒めいただけるとはな」
「局長の日頃のご尽力の賜物ですわ」
「『レーヴェンハルトの書く外交文書は実に見事だ』と仰ったそうだ」
レーヴェンハルトの、書く。
——そう。レーヴェンハルトが書いたことになっている。
「光栄でございますわね」
「ああ。——君のおかげだよ」
感謝の言葉だった。形としては。
けれど重さがない。
書簡の末尾に添える「敬具」と同じだ。込める気持ちの量が等しい。
十年前は頬が熱くなった。
今はもう、乾いたインクほどの温もりも残らない。
「もったいないお言葉ですわ」
微笑んで扉を閉めた。
廊下に出る前に、一度だけ振り返った。
ヴィクトルはもう茶に戻っている。
書簡のことも、陛下の言葉も、もう頭にはない顔だった。
十年前はもう少し違った。婚約者として、少なくとも名前を呼ぶ時に温かみがあった。
いつからだろう。道具を使うのと同じ調子でセラフィーナを呼ぶようになったのは。
廊下に出ると、外交局の朝が動いていた。
書記官たちが書類の束を抱えて行き交う。
飛脚鳥の世話係が鳥籠を担いで階段を駆け下りていった。
誰もセラフィーナに目を留めない。
局内での肩書は「局長の婚約者にして秘書」。
三千通の書簡を書いたことは誰にも知らされていない。
東棟から西棟まで続く石張りの回廊。左右に書庫、記録室、会議室が並ぶ。
この建物のどこかに、十年かけて書いた三千通分の控えが眠っている。
——控えの存在を知る者は、セラフィーナ以外にいないはずだった。
書記官の間を通り過ぎようとした時、会話の断片が耳に入った。
「——昨晩の夜会、陛下が局長の文書を褒められたそうだ」
「さすがだな。局長の筆は王国の宝だよ」
右手の指が、一瞬だけ握り込まれた。
足を止めずに通り過ぎた。こういう会話は一日に何度も耳にする。
「おや、セラフィーナ嬢」
声は背後から降ってきた。
ガルシア・モンターニュ。
外交局補佐官。ヴィクトルの右腕を自認する男だ。
廊下の柱に寄りかかるようにして立っている。
「おはようございます、ガルシア補佐官殿」
「朝から精勤ですな。局長のお世話はさぞ大変でしょう」
お世話。
三千通の外交書簡を、そう呼ぶ。
——いいえ。この男はそもそも知らないのだ。
「おかげさまで充実しておりますわ」
「結構、結構」
ガルシアの口元が笑みの形を作った。
目だけが笑っていない。
十年、人の書いた文字を読んできた。文字に嘘を混ぜる者は顔にも嘘を載せる。
「ところで」
背を向けかけたセラフィーナを、ガルシアの声が引き留めた。
「近頃、局長に直接お会いになる機会が多いようですな。局務に差し障りませんように」
「ご忠告、心に留めておきますわ」
「局長は多忙な御方だ。瑣末な用事は書記官を通すのが筋でしょう」
「では今後、書簡の受け渡しは書記官を通しましょうか」
「——それは局長がお決めになることだ」
局長に会うなと言いながら、判断は局長に委ねる。
矛盾している。
この男が欲しいのはセラフィーナが局長の前から消えること。業務の効率化ではない。
「お互い、分相応が一番ですよ。——セラフィーナ嬢」
分相応。
公爵令嬢に向けて、わざわざ「嬢」づけで呼ぶ。婚約者の敬称を剥ぎ取る計算だ。
微笑んだまま一礼し、背を向けた。
——分相応。十年前なら頬が熱くなっただろう。今は違う。怒りより先に、この男の意図を解読する頭が動いている。
うなじにガルシアの視線が張りつく。蝋燭の熱のように、じっとりと。
書斎に戻ると、沈黙が降りてきた。
廊下の喧騒が扉一枚で途絶える。
ここだけはいつも変わらない。ペンと紙とインクと、自分だけの場所だった。
「……お待たせいたしましたわ」
机の上には次の仕事が待っていた。
ルミエール帝国宛て——宰相エミール・ド・ヴェルサイユへの返書だ。
この一通だけは、他の二千九百九十九通とは違う。
文面の裏に暗号が織り込まれている。
セラフィーナと宰相だけが読める暗号だ。
先王が遺した暗号外交術。表の外交では伝えられない真意を託す、影の外交。
先王が崩御されて五年。
この暗号を知る者はエミール宰相とセラフィーナの二人だけになった。
十年で三百通を超える暗号書簡を交わしてきた。
文面に織り込まれた暗号を、エミール宰相は一度も読み違えたことがない。
先日届いた返書には、十年で初めて見る暗号が一語だけ織り込まれていた。「警戒せよ」。
顔を合わせたことのない相手だ。
手紙だけで信頼を築いた、唯一の人間。
ペンを取った。インクを浸す。
三千一通目が始まる。
署名欄にはまた別の名前が入るだろう。
明日も。あさっても。
仕事は完遂されるためにある。十年、一度も揺らがなかった信条だ。
不意に視界の端が引っかかった。
机の右端——書簡の控えを収めた引き出しが、指一本ぶん開いている。
今朝は開けていない。
指を伸ばしかけて、止めた。今は開けない。まず、誰がこの部屋に入れるかを数える。
鉄胆インクの匂いが、変わらず書斎を満たしていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
新作「代筆令嬢」、第一話をお届けします。
この物語の出発点は「ペン一本で国を支えた女性が、誰にも知られていなかったら」という一点でした。なろうでは剣や魔法で世界を変える話が多いですが、書簡——手書きの文字だけで国際関係を動かし続けた人間がいたら? と考えたのが始まりです。
書いていて驚いたのが、書斎の描写がやけに筆が乗ること。インクの匂い、ペンだこの感触、封蝋が溶ける小さな光。「書くことを書く」という入れ子の構造が妙に心地よくて、気がつけばセラフィーナの隣でわたしも書斎に座っているような気分でした。
三千通の書簡の裏に何が隠されていたのか——次話以降、少しずつ明かしていきます。
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