明日から、どなたが
鉄胆インクが、暗闇の底で匂っていた。
都の鐘はまだ鳴らない。蝋燭を一本灯して書斎に入った。
炎が揺れる。十年ぶんの仕事道具が影ごと浮かび上がった。棚の書簡束。壁に掛けた三カ国の地図。この部屋で十年の朝と夜が過ぎた。
今朝のうちに、この部屋を空にする。
風呂敷を机に広げた。机の端にペンで削れた浅い溝がある。十年のあいだに手が同じ場所に戻り続けた痕だった。
棚の上段から順に確かめた。
フェルゼン連合との通商条約控え。ルミエール帝国への修好書簡写し。同盟国向け祝辞の雛形。
いずれも外交局の公印が捺してある。局の所管物だ。一冊も触れない。
——触れなくていい。中身は全部、この頭に入っている。
下段に手を伸ばした。「個人覚書」と自分の字で記した書類挟みが三冊。
一冊目を開いた。各国書記官の筆癖の記録。
二冊目。宰相府が好む書簡文体の分析。
三冊目——外交慣用句の応用。そしてこの冊の行間にだけ、暗号の道しるべが散りばめてある。
暗号の鍵そのものは紙にしていない。頭の中にある。
——ガルシアには「紙にはしておりません」と答えた。鍵の話に限れば嘘ではない。
だが鍵に至る道しるべは、十年かけてこの覚書に織り込んであった。読む者が読めば鍵に辿り着ける。読めるのは、この世にわたくしとエミール宰相の二人だけだ。
引き出しから革装の手帳を取り出した。角が擦り切れて金箔は半分剥がれている。十年ぶんの交渉の記録だ。
最後の頁を開いた。一昨日の日付。その下にヴィクトルの指示を書き写してある。「骨子:適切に対応のこと」。これがルミエール帝国への返書の全指示だった。七行の国書を、この一行から組み立てていた。
書類挟みと手帳を風呂敷の中央に重ねた。上から母の手紙を三通、替えの袖口カバー、使い込んだペン拭きの布を載せた。
結んだ。
どこから見ても、私物の荷造りだ。
三冊ぶんの空白が下段に残った。歯の抜けたような棚。この空白に気づく者がいるかどうか。
都の鐘が五つ鳴った。
蝋燭を吹き消した。窓硝子から九月の薄明が差し込み、机の上のインク瓶に触れた。
蓋を開けた。鉄胆インクの匂いが朝の冷気に乗ってひと筋立ち上った。
この匂いの中で三千通を書いた。
深く吸い込んだ。肺の底まで匂いを入れた。紙にはできない記憶だから。
「……もう、ここでは書かない」
蓋を閉じた。インク瓶を机の中央に置き直し、ペンをその隣に揃えた。
局の備品だ。最後の一本まで返す。
「……最後まで、きちんと」
風呂敷を抱え上げた。懐で北館の書庫の鍵が肋骨に当たった。公爵家の書庫だ。返さない。
百通の控えがあの棚にある。この腕の中にさらに三冊と一冊。
十年のすべてではない。だが道しるべとしては十分だった。
書斎の扉に手をかけた。振り返った。
空になった棚。裸の机。朝日に光るインク瓶。
「……お世話になりましたわ」
扉を閉めた。
廊下に出た。石壁の冷気と埃の匂いだけがある。鉄胆インクの匂いは扉の向こうに残った。
局長室に向かう。明け渡しの完了を告げる。それだけだ。
角を曲がったところで足音が近づいた。昨日、目を赤くしていた書記官だ。
「セラフィーナ様……おはようございます」
「おはよう」
「……本当に、今日で」
「ええ。書斎は片付いたわ」
書記官が帳面を両手で胸に抱えた。唇が動いて止まった。
「あの……昨日の夕方、局長殿がお一人で書簡を書いておられました」
「そう」
「何度もお書き直しになって……インクが足りないと仰っていて」
「インクの手配先は書斎の棚の帳簿に記してあるわ。伝えておいてちょうだい」
「……はい」
「お仕事に戻りなさい。遅刻するわよ」
「……はい。——お体に気をつけて」
小さく頭を下げて足早に去った。背中がいちど震えた。
——ありがとう。
声にはしなかった。
局長室の前に立った。
ノックした。
「入れ」
扉を開けた。整髪油の甘い匂いが鼻を掠めた。鉄胆インクとは正反対の、脂の甘さだ。
ガルシアが窓際に立っている。壁に背を預け、腕を組んでいた。
ヴィクトルは執務机の向こうに座っていた。机の上に書類が広がっている。いつもより多い。紙の端が揃わず、走り書きの覚書が何枚か散っていた。書きかけの文が途中で止まった紙もある。
——もう書こうとしたのだ。そして、書けなかった。
「失礼いたします。書斎の明け渡しのご報告に参りましたわ」
ヴィクトルが顔を上げた。目が合い——すぐに書類に戻った。
「……ああ」
「局の所管物はすべて所定の位置に残してございます。持ち出しましたのは私物のみですわ」
ガルシアが壁から背を離した。
「私物の内容は」
「母からの手紙と衣類の替え。それと個人的な文体研究の覚書ですわ」
「文体研究」
「ええ。十年もこのお仕事に携わっておりますと、各国の書簡の癖にも目が参りますの。趣味のようなものですわ」
微笑んだ。ガルシアの視線が風呂敷の上をなぞった。
「……趣味であれば局の管轄外ですな」
「恐れ入りますわ」
ガルシアは踏み込まなかった。文体研究の覚書に何が織り込まれているか。この男には判じようがない。
「書斎の備品はどうなっておる」
「棚の最上段に帳簿がございますわ。インクの手配先と紙の発注記録もそちらに」
「結構」
「引き継ぎの件だが」
ヴィクトルが口を開いた。目は書類に向いたままだ。
「ルミエール帝国への返書が未了で残っている」
「後任の方がご対応なさればよろしいかと。骨子は局長殿がおまとめになりましたもの」
ヴィクトルの指が止まった。
骨子。「適切に対応のこと」。あの一行から返書を組み立てられる人間が、明朝この局にいるか。
「返書の期限は今月末でございますわ。なお、ルミエール帝国の書簡様式は第三版に変わっております。冒頭の宛名配置が旧版と違いますの」
「……知っている」
「左様でございますか。書庫に雛形がございますので、後任の方にお伝えくださいませ」
「……ああ」
「それとフェルゼン連合への追加交渉も控えておりますわね」
ガルシアが顎を上げた。
「無論です。新体制ではわたしが書簡方針の全般を管理いたします。余計な手順を省けば——」
「それはお忙しくなりますわね。フェルゼンの書記官はどちらの方でしたかしら」
「……レーゲン卿の書記官でしょう。名は存じませんが」
「ハイネ殿ですわ。左利きで筆圧が高く、行末が上がる癖がおありになる方です。お返事の書体はそれに合わせておりましたの」
「書体などどうとでもなる」
「左様ですわね。どうとでもなりますわよね」
微笑んだ。ガルシアの顎が僅かに引けた。
「効率の問題ですよ。人が減れば行き違いも減る」
人が減る。三千通を書いた人間を、この男は「減った人」と数える。
「結構でございますわ。——では、これにて失礼いたします」
一礼した。風呂敷を抱え直して扉に向かった。
「ご苦労さまでした、セラフィーナ嬢」
ガルシアの声が背中に落ちた。
「書簡のことはご心配なく。代筆の替えなどいくらでもおりますからな」
足が止まった。
扉まであと二歩だった。取っ手に伸ばしかけた指が下りた。
振り返った。
ガルシアではなく——ヴィクトルを見た。
逆光の中の執務机。走り書きが散り、ペン先のインクが乾いている。
微笑んだ。声を荒げなかった。十年の外交が鍛えた微笑みだった。
「十年で三千通。——明日から、どなたがお書きになるのですか?」
沈黙が部屋に降り積もった。
ガルシアが鼻で笑った。
「大した自惚れですな。ご自分がおらねば局が回らぬとお思いか」
侮蔑を隠さない笑いだった。
だがヴィクトルは笑わなかった。ペンを握った指の関節が白くなっていた。机の上に散った書きかけの紙は一枚も完成していない。
ヴィクトルが口を開いた。
「セラフィ——」
声が途切れた。名の続きを口が拒んだように見えた。
セラフィーナは微笑みを崩さなかった。
「ご心配は無用ですわ。わたくしの問いは修辞的なものですもの」
一礼した。
扉を開けた。背中でガルシアの笑いがまだ続いていた。ヴィクトルの声は聞こえなかった。
扉が閉まった。整髪油の匂いが廊下まで追いかけてきた。
廊下を歩いた。
風呂敷を抱えた腕が強張っていた。
足音が石壁に跳ね返った。背中に誰かの目があった。振り返らなかった。
外交局の玄関を出た。石段を降りた。
入口の脇に銅板の表札がある。「外交局」。十年間、毎朝この文字を見て入った。毎晩見て出た。
九月の朝日が石畳を温めていた。深く息を吸った。石と朝露と、遠い厨房のパンの匂い。鉄胆インクの匂いはもうしない。
袖口に昨日までの名残がかすかに染みついていた。九月の風がそれをさらっていく。明日にはこの袖からも消える。
風呂敷の結び目を握り直した。覚書の角が布越しに掌を押した。懐の鍵がまた肋骨に触れた。冷たい金属だったが不思議と温かい。
「……次の手紙は、わたくしの名前で」
大通りの先に、朝霧に白む王都の門。




