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追手の決定

 七日目の朝、ヴィクトルの指はインクで黒く染まっていた。


 前任の秘書の爪の際にも、同じ色がこびりついていた。書斎から書簡を届けに来るたび、袖口の革カバーの下から覗く細い指先が鉄胆インクで黒ずんでいた。十年間、気に留めたことは一度もなかった。


 今、自分の指が同じ色に染まっている。だが書けたのは宛名だけだった。


 机の上に反古の紙が散らばっていた。「フェルゼン連合評議会議長殿」で止まった紙が幾枚。「凍結条項の解除につき」まで進んで丸めた紙が幾枚。書き出しの一行を十の変奏で試し、どれも違うと投げ捨てた紙が幾枚。


 七日分の紙が足元の屑籠から溢れて床に転がっていた。


 マイスナーの期限まで、残り三日。


 最初の二日は、まだ書けると思っていた。書簡は文章だ。文章は言葉を並べれば形になる。だがペンを取ると宛名の先で手が止まった。


 どの言い回しが評議会の慣行に適うのか。どの語がフェルゼンの矜持を傷つけるのか。何ひとつ分からなかった。


 三日目に書記官を呼んだ。定型の挨拶文は教わった。だが書記官も、前任の秘書がどんな書き方でフェルゼンの心を動かしていたかまでは知らなかった。


「控えは残っていないのか。書簡の写しのようなものは」


「ございません。あの方は、いつもお一人で書いておいででしたので」


 書記官はそう答えて口を閉じた。


 四日目に王城の文庫に足を運んだ。フェルゼン連合の通商慣行について書かれた古い報告書を探した。黄ばんだ紙の束を半日かけて読んだが、書かれていたのは三十年前の条項で現在の慣行とは異なっていた。


 前任の秘書は、こうした知識を全て頭の中に持っていた。書棚に並べようのない知識を、あの女は記憶に格納していたのだ。


 五日目にガルシアが以前に書いた書簡の控えを引き出して読み返した。だが参考にならなかった。何が悪いのかは今なら分かる。だが何が正しいのかは、やはり分からなかった。


 正しい言葉を正しい順に、正しい温度で並べること——それこそが前任の秘書だけに備わっていた力だった。


 ガルシアは毎日一度、局長室を覗きに来た。何も言わず、机の上を一瞥して出ていくだけだった。反古が増えるたび、あの目が何かを計っていた。


 六日目の夜は蝋燭を落としてなお机に向かっていた。暗がりの中、ペン先がインク壺にぶつかる音だけが響いていた。白紙の上に何も置けないまま朝が来た。


 その夜に一度だけ、前任の秘書が使っていた書斎の前を通った。扉は閉じたままだった。中に何があるわけでもない。ペンも鉄胆インクもすべて局長室に運び出してある。


 だが足が止まった。取手に手を伸ばしかけ、そのまま下ろした。空の部屋を見たところで何が変わるわけでもなかった。


 七日目の朝。インクが指に染みつき、書簡は一通も完成していなかった。


 書記官が朝の報告を持ってきた。ルミエール帝国からの催促が一通、東部港湾の商館からの陳情が二通。どれも返書を要したが、ヴィクトルは紙の束を受け取って机の隅に積んだだけだった。


「局長殿、ルミエールの件は期限が——」


「後にしろ」


 書記官は一礼して出ていった。足音が廊下で一度止まり、それから早足で去った。


 半刻ほどして、別の足音が近づいてきた。一定の間隔で迷いなく歩いてくる靴音。ヴィクトルは顔を上げる前に誰だか分かった。


「局長。少しよろしいでしょうか」


 ガルシアだった。扉口に立ち、中を一瞥してから入ってきた。手には何も持っていなかった。数字の話ではないらしかった。


「……何だ」


「残り三日でございます」


「知っている」


 ガルシアは椅子を引き、許可を待たずに腰を下ろした。視線が机の上を走った。反古の山、インクの滴りが落ちた白紙、宛名しか書かれていない便箋の束。それらを見ても表情は動かなかった。


 やはり今日も来た。七日間、一日も欠かさなかった。


「もう一度だけ申し上げます」


 ヴィクトルの目が上がった。


「あの者のことか」


「はい」


「七日前に断った」


「左様でございます。七日前のことでございます」


 ガルシアの声は静かだった。責めてはいない。だが日数を述べるだけで十分だった。七日前と今とでは、ヴィクトルの足場がまるで違う。


「局長殿にはお書きになれず、わたしにも書けません。この局に凍結解除の書簡を書ける者は一人もおりません——一人を除いて」


「前にも言った。あの者は解任した。婚約も——」


「破棄なさいました。存じております」


「それなのに呼び戻せと」


「呼び戻すのではございません」


 ガルシアの口調がわずかに変わった。言葉を選ぶ間が一拍あった。


「書いていただくのです。凍結解除の書簡を一通だけ。それで交渉の扉が開けば、あとはこちらで引き継ぎます」


 一通だけ。言い方を変えてきた。「呼び戻す」では重すぎる。「一通書いてもらう」なら、用が済めば帰せるように聞こえる。


「一通で済むと思うのか」


「フェルゼンが求めているのは書簡の質でございます。書き手が変わったことは先方も承知しておいでです。あの者の筆が戻れば——少なくとも交渉は動きます」


 ヴィクトルは黙った。反論の言葉を探したが、出てこなかった。代わりに出てきたのは質問だった。


「居場所は分かるのか」


 尋ねた自分に驚いた。七日前に拒んだ問いの、その先を自分から踏み出している。


「南へ向かったことは把握しております」


「なぜ知っている」


「あの者が局を去った朝、南門の門番に確認いたしました。辻馬車に乗り南の街道に出たと」


「……あの朝から知っていたのか」


「方角だけでございます。ですが南の街道筋を辿れば足取りは追えましょう。宿で聞いて回れば、字の書ける女の一人旅は目立ちます」


 ヴィクトルの目がガルシアの顔を見た。


 あの朝。あの女を追い出した朝。ガルシアは「代筆の替えなどいくらでもおります」と言い放った。


 いくらでもいると言いながら、あの朝のうちに南門の門番を当たっていた。去った先を押さえていた。


 何のために。


 問いかけてはみたが、答えは半ば見えていた。替えなどいないことを、この男は追い出す前から知っていたのだ。いくらでもいると言い放ちながら、去った先だけは押さえておく。そういう男だった。


「……仮に見つかったとして」


 声が低くなった。


「見つけたとして、あの者が応じるとは限らん。自分の意志で去った者だ」


「ええ。ですが去ったときの事情と今の事情は異なります。外交局が機能を失いかけているという事実は、あの者にも分かるはずでございます」


「分かったところで、戻る理由にはなるまい」


「なるかどうかは、行ってみなければ分かりません。ですが——」


 ガルシアが一拍、間を置いた。


「試さずに三日を過ごされるよりは、マイスナー閣下にも申し開きが立ちましょう」


 窓の外で飛脚鳥の羽ばたきが一つ、遠ざかっていった。


 三日。書簡は書けない。ガルシアの書簡ではフェルゼンを怒らせるだけだ。マイスナーの期限が切れれば、局長の椅子ごと外交局が消える。


 あの女なら書ける。


 それだけが事実だった。十年間、毎日書いていた。三千通を一度も事故を起こさずに。前任の秘書の机に残されたインクの染みとペンの溝と爪傷が、その十年を証言していた。


 ヴィクトルは反古の山を見た。宛名だけが並んだ紙。インクの滲みが広がった白紙。七日分の敗北が、机の上に晒されていた。


「……好きにしろ」


 声は低く、掠れていた。


 ガルシアは動かなかった。一拍。それから静かに頭を下げた。


「承知いたしました」


 立ち上がり、扉へ向かう。その足取りに迷いはなかった。振り返りもしなかった。一直線に廊下を歩いていく背中が、扉の向こうに消えた。


 ——今は、まだ早うございます。


 七日前の言葉が耳の奥で蘇った。あの「まだ」は、この瞬間を指していたのだ。ヴィクトルが反古の山に埋もれ、期限に追い詰められ、もう断れなくなる日を。ガルシアは計っていた。


 追い出したときも、呼び戻すときも、この男が動く。ヴィクトルは「好きにしろ」と言うだけで、あとは他人の手に委ねる。十年間、そうしてきた。書簡も、外交も、あの女の処遇も。


 自分の指を見た。インクの染みが爪の際に黒くこびりついている。


 あの女と同じ色だった。だがこの指は、一通の書簡も完成させていなかった。




 翌朝——期限八日目——、ガルシアが局長室の扉を叩いた。第二鐘の少し前だった。


「手配は済みました」


 ヴィクトルは顔を上げた。紙は広げていたが、ペンは持っていなかった。もう書こうとすることをやめていた。


「昨夜のうちに二名、南の街道に出しました。騎馬でございます」


「……早いな」


「お許しをいただいた以上、遅らせる理由はございません」


「昨夜のうちに、か」


 二名。騎馬。あの「好きにしろ」から半日と経っていない。


「人選は」


「外の者でございます。局の人間が動けば宮廷の耳に入ります。外部の使いであれば、私的な伝言として処理できます」


 外の者。この男はいつ、外部の人間を用意したのだ。昨夜一晩で手配できるものではない。


「……以前から考えていたのか」


「万が一に備えておくのは、補佐官の務めでございます」


 答えになっていなかった。だがヴィクトルは追及しなかった。問い詰めれば、自分が見たくないものが出てくる気がした。


 あの女の行き先を追い、外部の人間を手配し、ヴィクトルが折れるのを待っていた——その一連の手順が、あまりにも滑らかに繋がっていた。


「見つかった場合、何と伝える」


「外交局の業務上至急帰還されたい——と。局長殿の名で、公式の要請として」


「……公式の要請」


 声が、自分でも分からない温度を帯びた。


 追い出すときは「代筆係ごとき」だった。この男がそう呼んだ。連れ戻すときは「公式の要請」。同じ口から出る言葉が、用に応じてこうも形を変える。


「あの者が拒んだら」


「説得を試みます」


「説得で済まぬ場合は」


 ガルシアは一拍黙った。


「済まぬ場合は、済まぬ場合でございましょう。ですが——あの者も現在は無職の身でございます。局からの公式な要請を無下にはできますまい」


 無職の身。ヴィクトルの胸の底で何かが軋んだ。無職にしたのは誰だ。あの女の職を取り上げ、婚約を破棄し、王都から追いやった。それをこの男が仕組み、自分が裁可した。その結果として生まれた「無職」を、今度は呼び戻す理由に使う。


「……分かった。任せる」


「承知いたしました」


 ガルシアは一礼して、扉を閉めた。閉まる直前、その横顔がわずかに見えた。


 笑みではなかった。だが何かの色があった。計算どおりに事が運んだ者の、静かな充足の色だった。ヴィクトルにはそれ以上読み取ることはできなかった。


 足音が廊下を遠ざかっていった。


「……追手、か」


 ヴィクトルは窓辺に立った。十一月の空は高く、南の方角に薄い雲がたなびいていた。


 追手は——いや、迎えは——もう街道を走っている。南に向かって。解任した女を、婚約を破棄した女を、追いかけて。


 十年間、あの女が書いた書簡をまともに読んだことがなかった。何を考えていたかも知らなかった。空の書斎の机に残された痕跡で、ようやく十年の重さの端だけを垣間見た。


 だがそれすらも理解とは呼べなかった。十年の一端を知ったのではなく、十年を知ろうとしなかった自分の空洞を覗いただけだ。


 それが今、追手を出した理由のすべてだった。自分では書けない。だから書ける者を追いかける。それだけのことだった。


 あの女は知らない。南のどこかにいて、追われていることも知らずにいる。


 机の上に、宛名だけの便箋がまだ残っていた。ヴィクトルはそれを裏返し、白い面を上にした。



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