辺境の風
風の匂いが変わった。
麦でも藁でもない。乾いた薬草と、山から降りる冷えた空気。それに樫の薪を割った匂いが混じっている。
セラフィーナは丘の上で足を止めた。
眼下に小さな集落が広がっていた。石積みの家が街道沿いに二十ほど。煙突のある建物が二つ。広場に荷車が一台。犬が日向で丸くなっている。
エルデ辺境伯領の中心地。宿場町の主人が「役所はもう少し南です」と教えてくれた場所だった。
十一月の風が頬を撫でた。冷たいが刺すほどではない。王都の晩秋より穏やかで、南にいるのだと肌で分かる。
丘を下りた。石畳はない。靴底に柔らかい土の感触が伝わった。王都の石畳とは何もかもが違う。
道沿いの家々は石と木で組まれている。軒下に干し薬草が吊るされ、根菜が籠に並べられていた。窓辺に洗濯物を干している女が一人、こちらを見て軽く頷いた。
人の暮らしの匂いがする場所だった。外交局の回廊にはなかった匂いだ。
広場に近づくと、荷を積み下ろしている男がこちらを見た。
「旅の方ですかな」
「ええ。こちらに役所があると聞いて参りました」
男は荷を抱えたまま、広場の奥を顎でしゃくった。
「あの石造りの。ハンスが中にいるはずだ」
「ありがとうございます」
一礼して歩き出した。背中に声がかかる。
「ここらに用のある旅人は珍しい。何のご用で」
「書記のお仕事を探しております」
男が荷を下ろした。
「字が書けるのか」
「はい」
「そりゃあ——ハンスが泣いて喜ぶぞ」
石造りの建物は思っていたより小さかった。
扉を開けると、紙とインクの匂いがした。鉄胆インクではない。安価な墨の匂いだ。懐かしくはないが、嫌いではなかった。
中は一部屋きりだった。木の机が三つ並んでいる。だが人がいるのは一つだけで、残りの二つには埃が薄く積もっていた。
白髪交じりの男が書類の山に埋もれるようにして何か書いている。
「失礼いたします」
男が顔を上げた。四十を過ぎた頃だろう。額に深い皺が刻まれ、目だけが穏やかだった。
「おや。どちら様で」
「旅の者です。書記のお仕事はありませんか」
男の手が止まった。ペンを置き、セラフィーナの顔をまじまじと見た。
「書記の仕事はありませんか、と」
「はい」
「……ございますとも」
男が立ち上がった。椅子が軋んだ。
「ハンス・ブルクナーと申します。この役所の——まあ、何でも屋です」
手を差し出された。セラフィーナはその手を握った。ペンだこはなかった。代わりに土仕事で硬くなった掌だった。
「セラフィーナと申します」
名乗りながら、自分の右手に視線を落とした。中指のペンだこはまだ残っている。十年分の仕事の跡だ。ハンスがそれに気づいたかどうかは分からなかった。
「セラフィーナ殿。お掛けください」
椅子を勧められた。座ると、ハンスが机の上の書類を手で示した。
「ご覧の通りです。書類は積み上がる一方で、書ける者がおらん」
「お一人で?」
「もう一人おったのですが、先月から南の砦に行ったきり戻りません。あちらでも書類に追われておるようで」
「南の砦?」
「ええ。このところ少し物騒でしてな」
ハンスは棚から革の巻物を取り出した。地図だった。外交局のものとは比べようもない簡素な作りだが、集落と道が丁寧に書き込まれている。
「ここがこの町です」
指が地図を滑った。
「南に山を二つ越えた先に、セルバトーレ公国との境があります。一年ほど前から、向こうの領民がこちらの山林に入ってくるようになりまして」
「どのくらいの頻度で」
「月に何度か。最近は増えておりまして、砦のほうでも気を揉んでいます」
「領域の侵犯ですか」
「いえ、そこまで大げさな話では。薪を取りに来ているだけです。ですが先方にも言い分がありまして——あの山林はもともと自分たちのものだ、と」
セラフィーナの目が地図の上を走った。境界線は点線で曖昧に引かれている。
「境界の画定が未了のまま放置されていた、ということですわね」
「……まさに、その通りです」
ハンスが目を見開いた。
「辺境伯様はどちらに」
「王都においでです。こちらにお戻りになるのは年に二度ほどで。普段はわれわれに任されております」
「では境界紛争の対応も、こちらの役所で」
「はい。とはいえ対応と呼べるほどのことは何も。向こうの役人と手紙をやりとりしておるだけですが、それすら滞っておりまして」
ハンスが頭を掻いた。
「正直なところ、書簡の書き方が分からんのです。相手を怒らせず、こちらの主張は伝えねばならん。そういう文面が、どうにも」
棚から書類の束を取り出させてもらった。紐で綴じられた紙が数十枚。開くと墨の匂いが微かに立った。
文面に目を通した。丁寧だが硬い。外交の慣行を知らぬまま、誠意だけで書いている。
相手の返書にも目を走らせた。最初は穏やかだったものが、回を重ねるごとに語調が尖っている。
原因は見えた。こちらの書簡が「退去されたし」の一点張りで、先方の主張を検討した形跡がない。これでは交渉ではなく通告だ。
封蝋にも目がいった。蝋で固められた簡素な紋章だったが、輪郭がひどく滲んでいる。書き手の迷いが蝋に出ている。
三国間の外交とは規模が違う。だが書簡の本質は同じだった。言葉で相手の扉を開くこと。
「……なるほど」
「何か分かりましたか」
「この書簡に足りないのは、相互利益の提案ですわ」
「相互利益」
「こちらの主張だけを述べても、相手には受け入れる動機がございません。山林の利用について双方に利のある枠組みを添えれば——対話の土台が生まれます」
ハンスが黙った。ゆっくりと頷いた。
「……あなた、ただの旅人ではありませんな」
セラフィーナは微笑んだ。
「以前、手紙を書くお仕事をしておりました」
「手紙を書く仕事」
「ええ。それだけの十年でしたけれど」
声が少しだけ柔らかくなった。自分でも気づかないほどの変化だった。
ハンスは何か言おうとして口を開き、閉じた。それから棚の書類に目を戻した。
「……ところで、こちらの返書はいつ出す予定でしたか」
「先週には出すつもりでしたが、文面が定まらぬまま。もう半月近く放置しております」
「半月は長いですわ。相手の苛立ちが増すのも道理です」
「返す言葉もございません」
ハンスは腕を組んだ。少し考えてから口を開いた。
「セラフィーナ殿。単刀直入に伺います」
「はい」
「この役所で書記として働いていただけませんか」
思っていたより早い申し出だった。だが断る理由はなかった。
「条件を伺ってもよろしいですか」
「月の手当は銀マルク三枚。宿は裏手に空き部屋がございます。食事は向かいの飯屋で——経費として」
「交渉の余地はございますか」
ハンスが面食らった顔をした。
「……あるのですか」
「冗談ですわ」
口元がほころんだ。自分でも驚くほど自然に笑えた。
「よろしくお願いいたします」
「こちらこそ! 本当に助かります。明日からで——いや、今日からでも」
「明日の朝で結構ですわ。まず過去のやりとりを全て拝読させてください。それから現状を整理して、対応の優先順位を決めましょう」
ハンスがまた目を丸くした。
「……手紙を書く仕事というのは、相当なものだったのでは」
「ただの書記ですわ」
何か言いたげな顔だったが、ハンスはそれ以上問わなかった。代わりに深く頭を下げた。
「ようこそ、エルデへ」
その声は裏表のない声だった。外交局の回廊では聞いたことのない種類の温かさだった。
役所を出ると、西の空が橙に染まっていた。
十一月の日暮れは早い。広場の荷車は片付けられ、煙突から夕餉の煙が上り始めている。
薪の煙が空気を満たしている。鉄胆インクの鋭さはどこにもない。土と木と煙——それがこの町の匂いだった。
裏手の空き部屋を見せてもらった。小さな部屋だった。寝台と机と椅子がそれぞれ一つ。窓から見えるのは根菜の畑と、遠い山の稜線。
荷物を下ろした。風呂敷から覚書を取り出して机に置いた。竹ペンと墨壺も並べる。
窓を開けた。
風が入ってきた。薬草と土と夕暮れの冷気。外交局の書斎にはなかった匂いだ。
明日から書く。
誰かの名前ではなく。代筆でもなく。この小さな役所の書記として、自分の仕事を。
——書記のお仕事はありませんか。
自分が口にした言葉が耳に残っている。十年間、一度も言ったことのない問いだった。仕事は常にそこにあった。尋ねる必要はなかった。署名欄に自分の名前が載ることもなかった。
今日、初めて自分から仕事を求めた。自分の名を告げて。誰の代わりでもなく。
右手を見た。ペンだこがある。この手は書くためにある。
覚書の白紙を開いた。竹ペンを取り、一行だけ書いた。
——エルデの風は、薬草の匂いがする。
ペンを置いた。窓の外で、鳥が一羽鳴いた。遠い山の稜線が紫に沈んでいく。
向かいの飯屋で夕食を取った。豆と根菜の煮込みにパン。素朴だが温かかった。
「ハンスの新しい書記さんだって?」
飯屋の女主人が水を注ぎ足しながら言った。
「もうお聞きになったのですか」
「狭い町ですからねえ。噂は日暮れまでに端から端へ届きます」
女主人が笑った。悪意のない笑い方だった。
「どこからいらしたの」
「北のほうから」
「それは遠いところを。まあゆっくりなさいな。何もない町ですけれど、人は悪くないですよ」
「……ええ。そのようですわね」
煮込みを一口食べた。根菜が柔らかく煮崩れていて、素朴な塩味がじんわりと舌に広がった。王都の食堂で食べた料理より、ずっと温かく感じた。
窓の外が暗くなっていく。北へ伸びる街道が夕闇に沈んだ。
あの道を歩いてきた。王都から、一人で。
今はもう、振り返らなくていい。
部屋に戻り、蝋燭に火を灯した。小さな炎が揺れて壁に影を落とす。
久しぶりに穏やかな夜だった。明日やるべきことがある。書くべきものがある。
それだけで十分だった。
寝支度を済ませ、寝台に横になった。
窓の外で、微かに蹄の音がした。
北のほうから街道を急ぐ馬。二頭——いや、聞き違いだろうか。音はすぐに遠くなり、夜の中に消えた。
旅人だろう。この街道は南北を結ぶ道だ。
セラフィーナは気に留めなかった。
蝋燭を吹き消した。暗くなった部屋に、薬草の匂いだけが残った。
明日から、書く。




