空の書斎
局長の首か、それとも外交局そのものか——突きつけられるものを想像しながら、ヴィクトルは宰相府の扉をくぐった。
十一月の朝はまだ暗く、回廊の敷石に霜が下りていた。案内の官吏は一言も発さず、ただ歩調を速めるようにと目だけで促した。
通された部屋は、内務卿の執務室ではなかった。
宰相府の奥、天井の高い一室。壁一面に大陸の地図が掛けられ、机の上には書類が幾重にも積まれている。マイスナーはその机の向こうに座り、ヴィクトルが入ってきても顔を上げなかった。
「レーヴェンハルト卿」
しばらくして、そう呼ばれた。
「お呼びにより参上いたしました」
「座りたまえ」
椅子を勧められた。腰を下ろすと、マイスナーがようやく顔を上げた。目の下に隈があった。この男もまた昨夜眠っていないのだと、ヴィクトルは場違いなことを思った。
「フェルゼンの凍結について、財務局の追加報告が入った」
紙を一枚、机越しに滑らせてきた。
「東部港湾の入港申請は、二割減から三割減に悪化している。商船はフェルゼン側の港で足止めされ、穀物の一部は積み替えもできず腐り始めているそうだ」
ヴィクトルは紙を手に取った。数字の羅列だった。だが数字の向こうに、荷を抱えたまま動けずにいる船の列が見えるようだった。
「対応策は」
マイスナーの声は静かだった。静かであることが、かえって重かった。
「凍結解除に向けて、フェルゼン評議会への正式な書簡を準備しております」
「準備している、ではなく、いつ出す」
言葉に詰まった。
「……近日中には」
「その返答は、二週間前にも聞いた」
マイスナーは紙の束をひとつ、指先で揃え直した。感情のない仕草だった。
「レーヴェンハルト卿。わたしは貴殿を責めているのではない。事態を確認しているだけだ」
「はい」
「十日だ」
短く告げられた。
「十日以内に、凍結解除交渉の見通しを示せ。評議会宛ての書簡の草案でもいい。この事態を収める意志と方策があることを、形にして見せてもらいたい」
「十日で……」
「難しいか」
目が合った。逃げ場のない問いだった。
「いいえ。十日で、必ず」
言った瞬間、自分の声が空々しく響くのを感じた。マイスナーもそれを聞き取ったはずだった。だが老獪な内務卿は、それについて何も言わなかった。
「過ぎれば、この件はわたしの手を離れる。陛下に報告し、局長人事も含めた検討に入る。そうなれば、貴殿の意志だけではどうにもならない領域の話になる」
「承知いたしました」
答えながら、掌が汗ばんでいるのに気づいた。喉の奥が乾いて、唾を呑み込む音が自分にだけ聞こえた。
「局の書記官は今何名だ」
「三名です。正規の書記官が二名と、臨時の写書官が一名」
「かつての定時書簡は月に何通だった」
「……十二通です」
「今は」
「四通です」
マイスナーは眉ひとつ動かさなかった。数字が語る崩壊の速度を、この男は正確に測っている。
「もうひとつ」
マイスナーが紙を一枚めくった。
「フェルゼン書記官ハイネから、非公式の照会が来ている。以前の書き手——十年間交渉を担っていた者について、健在かどうかを尋ねる内容だ」
息が止まった。胸の底で、何かが軋む音がした。
「なぜ、そのような」
「知らん。だが向こうも文体の変化には気づいている。書き手が変わったことも、質が落ちたことも、とうに承知の上で凍結に踏み切ったのだろう」
マイスナーの視線が、ヴィクトルの顔をまっすぐ見た。
「レーヴェンハルト卿。前任の秘書は、どこへ行った」
「……存じません」
答えるまでに、わずかな間があった。マイスナーはその間を見逃さなかったはずだった。だが追及はしなかった。
「ハイネへの返答は、どうされる」
「返答の要はないかと。非公式の照会です」
「所在も知らぬ局長が返答しようもないか」
皮肉ともとれぬ淡々とした口調だった。
「黙殺が最善の返答になることもある。だがフェルゼンは、その沈黙も織り込んでいるだろう」
「……はい」
「陛下のお耳に入るのは時間の問題だ。その前に、貴殿自身の手で片をつけたまえ」
「……はい」
「十日だ。下がってよい」
一礼して立ち上がった。膝がわずかに震えていた。回廊を戻る間、ヴィクトルは自分の足音だけを聞いていた。
外交局へ戻ったのは、昼を過ぎた頃だった。
局長室に入ろうとして、足が止まった。廊下の奥、使われていない一角。前任の秘書が十年間使っていた書斎の扉が、そこにあった。
昨夜、手を伸ばしかけてやめた扉だった。
今度は、やめなかった。
取っ手を握った。金属は冷たかった。押すと、蝶番が軋んだ音を立てた。誰も開けていない証拠のように、その音は長く尾を引いた。
埃と、古い紙の匂いがした。あの女がいた頃はインクの匂いがしていた部屋だった。鉄胆インクの匂いは、もう欠片も残っていなかった。
窓の鎧戸が閉じられたままで、部屋は薄暗かった。ヴィクトルは鎧戸を開けた。十一月の光が斜めに差し込み、埃の粒が宙で舞うのが見えた。
——何年か前のこと。夜更けに書類を抱えて局長室を出た帰り、この扉の下から明かりが漏れているのに気づいたことがあった。蝋燭の灯りと、規則正しく紙を引っ掻くペン先の音。まだ書いているのか、とだけ思い、ヴィクトルは足を止めなかった。労うことも、声をかけることもせず、そのまま廊下を通り過ぎた。
扉の下の明かりは、もう何年も灯っていない。埃の粒だけが、あの夜と同じ光の筋の中を、音もなく漂っていた。
棚は空だった。
机の引き出しを開けた。ひとつ、またひとつ。何も入っていなかった。書類挟みの一枚も、走り書きの紙片一つも残っていない。徹底していた。持ち出すべきものを、あの女は全部持ち出していた。
紙に宿るという意志の力は、紙とともにこの部屋を出ていった。書文魔法は手書きの文字にのみ宿るという。ならばこの部屋には、もう誰の魔力も残っていないはずだった。ただの木の机と、空になった棚があるだけの、何の変哲もない部屋。
「……何もない」
声が、静かな部屋に落ちた。予想していたはずなのに、実際に確かめると胸の底が冷えた。
机の前に立ち、そのまま椅子に腰を下ろした。前任の秘書が十年座り続けた椅子だった。座面は硬く、背もたれの高さが妙にしっくりときた。
机の天板に、目が止まった。
右手側の隅、ちょうど利き手の届く位置に、丸い染みが薄く残っていた。インク壺を置く場所が、十年間一度も動かなかった証だった。染みの外側にはもう一段薄い輪があり、壺を置き換えるたびに少しずつ位置がずれ、それでも同じ数寸の範囲を出なかったことを示していた。
その隣、天板の縁に近いところに、細い溝があった。指でなぞると、木がわずかにへこんでいる。ペン先を休める位置に、同じ角度で何千回、何万回と置かれ続けた跡だった。
ヴィクトルは自分の指先を、その溝に沿わせてみた。
——ここに、ペンを置いていたのか。
左手側には、別の跡があった。爪でつけたような細い引っ掻き傷が並んでいる。考え込むときに、無意識に爪を立てていたのだろう。傷は不規則で、深いものと浅いものが混じっていた。交渉が難航した回数だけ、この傷が増えていったのかもしれない。
窓辺の床板の一角だけ、他より色が薄かった。日に焼けた跡だった。誰かが長く同じ場所に立ち続け、その足元だけ日差しを遮っていたということだ。飛脚鳥が発つのを、そこから見送っていたのかもしれない。
「……ここに立って、毎日見送っていたのか」
ヴィクトルは、その全部を順に見て回った。
染み。溝。傷。日焼けの跡。どれも紙には残らない痕跡だった。だからこそ、あの女はここに残していったのだろう。持ち出せるものは全て持ち出し、持ち出せないものだけを、この部屋に置いていった。
十年間、この机で、この椅子で、三千通を書き続けた。控えも覚書も、今は跡形もない。だが机には——確かに、誰かがここで生きていた跡があった。
「……何を、考えていたんだ」
誰への問いでもなかった。答える者もいなかった。
立ち上がろうとして、机の下に手が触れた。埃を払うと、木の裏側にごく浅い刻み目が並んでいるのに気づいた。数える印のようだった。正の字にも見えたが、五本一組ではなく、三本ずつで区切られている。何の数だったのかは分からない。書簡の数か、交渉の回数か、それとも別の何かか。
「……何の数だ」
さらに屈み込むと、引き出しの底板にわずかな段差があるのに指先が触れた。押してみると板が浮き、その下にもう一段浅い空間が隠されているのが分かった。無理に拵えたものではない。精巧に嵌め込まれた、隠し抽斗だった。
中は空だった。ただ埃の積もり方だけが、他の場所と違っていた。長方形に区切られた薄い跡が残っている。何か平たいものが、つい最近までそこに収まっていた証だった。鍵をこじ開けた痕跡はどこにもない。持ち主自身の手で、静かに開けられ、静かに空にされたのだ。
ヴィクトルには、読み解けなかった。暗号か、私信か、それとも——十年分の控えの一部だったのか。
何であれ、もう遅い。十年間、読まなかったのだから。
肩の力が抜けた。膝に手をつき、深く息を吐いた。求めていたものは何もなかった。書式も、慣行も、フェルゼン書記官の筆癖も——何ひとつ、この部屋からは持ち帰れない。あるのは机の傷と、もう戻らない十年の重さだけだった。
この部屋を、十年間一度も覗かなかった。覗く理由がなかったからだ。あの女がいれば、それで十分だった。いなくなって初めて、ここに何があったのかを知ろうとしている自分が——
扉の外で、足音が止まった。
「局長」
ガルシアだった。
振り向くと、ガルシアが戸口に立ち、部屋の中を眺めていた。空の棚、開いたままの引き出し、椅子に座っていた形跡。それらを一瞥する目に、驚きの色はなかった。
「宰相府はいかがでしたか」
「十日だ」
短く答えた。
「十日以内に、凍結解除の見通しを示せと」
「……厳しゅうございますな」
ガルシアの声に、感情の温度はなかった。事実だけを受け止める声だった。
「何か、お役に立つものは見つかりましたか」
視線が机に落ちた。染みや傷までは、この男には見えていないはずだった。だが空の引き出しと空の棚は、誰の目にも明らかだった。
「何もない」
ガルシアは一拍、黙った。
「左様でございますか」
その顔に、わずかな変化があった。落胆でも同情でもない。何かを測るような、静かな計算の色だった。ヴィクトルには、その色の正体まで読み取ることはできなかった。
「局長。十日という期限であれば——書簡の質を戻す方法は、限られましょう」
「分かっている」
「控えも見つからぬ以上、書式の再現は不可能かと。問題は書き手にございます」
「控えがあれば、書式だけでも再現できたものを」
「控えは——」
「ございませんでしたな。一通も」
ヴィクトルの指が膝の上で止まった。
「何が言いたい」
「前任を呼び戻すという手も、ございましょう」
「あの者は解任した。婚約も破棄した。居場所すら知らん。今さら呼び戻せるはずがない」
「居場所であれば、調べる手段はございます」
「……何だと」
「左様でございますか。では、その話は置きましょう」
ガルシアは一拍置いて、静かに続けた。
「であれば、別の手を考えねばなりません。十日は短うございます」
「……具体案があるなら言え」
「いえ。今は、まだ早うございます」
それだけ言うと、ガルシアは一礼して背を向けた。足音が廊下を遠ざかっていく。
ヴィクトルは、空の書斎に一人残った。
窓の外で、飛脚鳥が一羽、南へ向かって飛んでいくのが見えた。
——今は、まだ早い。
ガルシアの言葉が、耳の奥に残った。何が早いのか、問い返す前に扉は閉まっていた。何を考えているのか分からないその横顔に、ヴィクトルは覚えのある不安を感じた。
あの朝、あの女を追い出したときと同じ目を、この男はしていた。




