通商交渉の暗雲
蝋の匂いが、来賓室の底に溜まっていた。
九月の末。外交局の来賓室に朝の光が低い角度で差し込んでいる。八人掛けの長卓が部屋の中央を占め、両端に高背の椅子が向かい合っている。卓の端に銀の皿が置かれ、赤い封蝋の棒と灯されていない蝋燭が並んでいた。交渉が調えばこの蝋を溶かし、条約の綴じ目に印を押す。
ガルシア・モンターニュが卓の上の書類を並べていた。条約更新草案、十二頁。昨夜のうちに書記官に清書させたものを一枚ずつ揃え、卓の中央に積んだ。指先が紙の角を整える動きは手慣れていて、書類の束を扱い慣れた人間のそれだった。
「準備は整いましたぞ、局長殿」
ヴィクトル・レーヴェンハルトが来賓室に入った。卓に歩み寄り、草案の表紙に目を落とした。
「条約の更新は何を詰める」
「大筋は現行の踏襲です。関税率と通商品目の細目調整をフェルゼン側と詰めれば済む話でして」
ガルシアは草案の表紙を指先で整えた。
「わたしが草案を仕上げておりますから、局長殿はご確認と最終的なご判断をいただければ」
ヴィクトルの指が草案の縁をなぞった。頁を開きかけて、やめた。
「前の条約は——中身は誰がまとめた」
ガルシアの手が一瞬止まった。
「……前任の者が骨子をまとめておりましたが、大した仕事ではございません。今回はわたしが一から見直しました」
ヴィクトルは何も言わずに椅子に座った。窓のほうを向いている。窓の外の空を飛脚鳥が一羽、東へ向かって横切っていった。
第二鐘が鳴った。余韻が石壁の中で跳ね返り、やがて沈黙に呑まれた。
「お通しいたします」
扉の外から書記官の声がした。
フェルゼン連合の通商使節ヴェルナー・ブルクハルトは、随行の書記二名を従えて来賓室に入った。
灰色の短い顎鬚を蓄えた壮年の男だった。商人の正装というべき仕立ての良い外套を纏っている。貴族の華美ではない。だが布地は上等で、袖口に連合評議会の紋——秤と鍵を組み合わせた意匠——が銀糸で刺されていた。
椅子に背を預けず、浅く腰かけた。随行の書記がその両脇に座り、一人が帳簿を開いた。もう一人が竹ペンを取り出し、墨壺の蓋を開けた。記録の用意だった。
挨拶の言葉が交わされた。季節の候と両国の誼を述べる儀礼。だがヴェルナーの儀礼は短く、乾いていた。型どおりの言葉が型どおりの長さで終わり、それ以上の温かみを乗せる気配はなかった。
ガルシアが口を開こうとした。だがそれより先に、ヴェルナーが声を出した。
「局長殿。交渉の本題に入る前に、一点確かめておきたいことがございます」
ヴィクトルの背筋が僅かに硬くなった。
「……何だ」
「先日、書記官ハイネに届いた貴局からの返書についてです」
ガルシアが身を乗り出した。
「ハイネ殿への返書はわたしが骨子をまとめたものでございます。何かございましたかな」
「ございましたかな、と」
ヴェルナーの声は静かだった。張りも落としもしない。だがその静けさの中に、卓の上の空気を一段冷やすものが含まれていた。
「催促状への返答に半月を要されたことは、まあよろしい。ですが——あの返書は、連合評議会宛てではなく、ハイネ個人宛ての書式で書かれておりました」
「個人宛ての書式、ですと」
「フェルゼン連合の通商交渉においては、書簡の宛先は連合評議会になります」
ヴェルナーの声は淀みなく続いた。
「書記官は評議会の代行者でございます。個人宛ての書簡として受け取った場合、回付手続きには入りません」
ヴェルナーの目がガルシアの顔をまっすぐ見た。
「ご存じなかったのですか」
ガルシアの顎が引かれた。一拍。だがすぐに言葉を出した。
「細かな書式の問題は些末と存じますが。実務的には内容が伝わっていれば——」
「些末、でしょうか」
ヴェルナーの両手が卓の上で静かに組み直された。それだけの動作だった。だが随行の書記がペンの先を帳簿に走らせた。何かを書き留めている。
「評議会に届いていない書簡は、手続き上、存在しない書簡と同じです。つまり——貴局は催促に対して何も返答していない、ということになる」
ヴィクトルの視線がガルシアに向いた。一瞬。すぐに前に戻った。
「それは——手違いだ。改めて正式な書式で送り直す」
「お願いいたします」
ヴェルナーの声に棘はなかった。ただ丁寧さの下に、もう一つ別の温度が流れている。暖炉の炎がぱちりと弾け、炎の影が壁を揺らした。
「それでは、条約の件に入りたいのですが」
ガルシアが草案を卓の中央に押し出した。
「こちらが当方の更新草案でございます。通商品目の見直し、関税率の調整、有効期限の更新を盛り込んでございまして——」
ヴェルナーが草案を手に取った。表紙を開いた。紙が擦れる乾いた音が来賓室に落ちた。目が一行ずつ文字を追っていく。前文を過ぎ、第二頁の品目一覧を過ぎ、指が第三頁を開いた。インクの匂いがまだ新しい。昨夜書かれたものだとわかる距離だった。
「関税率の表がございますな」
「ございます。最新の通商台帳から数字を引いて反映させてございます」
「……最新の台帳に基づく」
ヴェルナーの指が紙の上の数字を辿った。止まった。
「局長殿」
声がヴィクトルに向けられた。
「現行の条約では、関税は取引高に応じた段階制になっております」
ヴェルナーが草案の一頁を指で押さえた。
「千マルク未満が一割二分、千マルク以上五千マルク未満が八分、五千マルク以上が五分。これは五年前、貴局のご提案で双方が合意した率です」
「……ああ」
「しかしこの草案では、一律一割と記されている。段階制が消えておりますが——これは意図的な変更ですか」
ガルシアが口を挟んだ。
「関税の簡素化は新体制の方針でございまして。段階制は計算が煩雑ですから、一律の方が双方にとって分かりやすいと判断いたしました」
ヴェルナーの顎鬚の下で、口の端がわずかに引かれた。笑みではなかった。
「煩雑、ですか」
その一語を噛むように口にした。
「局長殿。五年前にこの段階制をご提案されたのは、あなたのお名前でしたが」
来賓室が静まった。暖炉の薪が崩れる音。灰が火床に散った。
「五年前の交渉では、仲裁条項と組み合わせた段階引き下げという枠組みをご提示いただきました」
ヴェルナーの声が僅かに力を帯びた。
「大口取引の関税を引き下げる代わりに、紛争時の仲裁手続きを双方で整備する。あの枠組みは連合評議会で高く評価されたものです」
「今回の更新でも、あの枠組みを基盤に議論を深めたいと考えておりましたが——この草案は、それとはまったく別のものですな」
ヴィクトルの右手が卓の上を這った。指先がペンを探すように動いたが、来賓室の卓にペンは置かれていなかった。指が宙を掴んで、止まった。
「……当時の交渉では、さまざまな案が検討された」
「さまざまな案の中から最も精緻なものを選び、双方が三月かけて詰めた。あの作業は——率直に申して、見事でした」
ヴェルナーの目が一瞬遠くなった。
「書簡のやり取りだけで仲裁条項の細部まで合意に至ったのは、こちらとしても異例のことでしたから」
ガルシアが身を乗り出した。
「過去の経緯は承知しておりますが、新体制では旧来の複雑な仕組みを見直す方針でございまして——」
「新体制」
ヴェルナーがその二文字だけを切り取って繰り返した。声の調子は変わらない。だが、相手の言葉を刃先で確かめるように口に乗せるその間合いには、商人が取引の相手を値踏みするときの冷えた正確さがあった。
随行の書記のペンが走る音だけが、石壁の間を満たした。
「局長殿」
ヴェルナーがヴィクトルに向き直った。
「率直に申し上げます」
来賓室の空気が変わった。暖炉の炎が揺れもしないのに、壁際の影が一段濃くなったように見える。ヴェルナーの声は依然として静かだった。だがその静けさが、もはや礼儀ではなく判定の声色を帯びていた。
「ここ十日ほど、貴局からの書簡の質が変わりました」
言葉が来賓室の空気に落ちた。石が深い水底に沈むように、静かに。
「以前は書式も内容も的確で、こちらの慣習を踏まえた上で書かれておりました」
ヴェルナーの視線が卓上の草案を一瞥した。
「語句の選び方、論点の組み立て方、書き手がこちらの立場をどれだけ理解しているかが、一行ごとに伝わってくる書簡でした」
ヴェルナーの顎鬚の下の口元が、一度だけ引き結ばれた。
「直近の書簡には、それがない」
暖炉の炎が小さくなっていた。薪が炭に変わりかけて、赤い明滅を繰り返している。来賓室の影が濃くなった。
「人の入れ替えがあったのか、方針が変わったのか。それは貴国の内情ですから問いません」
ヴェルナーの声が静かに沈んだ。
「しかし結果として、連合評議会は不安を抱いております。信頼は書簡の一行一行の上に積まれるものです。それが崩れれば、条約もまた——」
ヴェルナーはそこで言葉を切った。
ヴィクトルの喉が一度動いた。唇が開き——閉じた。
ガルシアが割って入った。
「ヴェルナー殿。書簡の様式や言い回しについて、過去のやり方に固執されるのは——」
「固執しているのではございません」
ヴェルナーの声が、初めてわずかに鋭くなった。
「以前の書簡は、こちらが何を懸念し何を望んでいるかを正確に読み取った上で書かれていた」
間を置いた。
「今の書簡は——失礼を承知で申しますが——こちらの書簡を読んだ上で書かれているのかどうか、疑わしい」
ガルシアの顔から一瞬、表情が消えた。笑みが抜けて、何も載っていない顔になった。だがすぐに笑みが戻った。その一瞬を——随行の書記が帳簿の上で視線を止めていた。
「評議会は、条約更新の延期を検討しております」
「延期ですと」
ガルシアの声が跳ね上がった。来賓室の壁に当たって返ってきた。
「五年ごとの更新を——」
「延期であって、破棄ではございません。ただし、このまま交渉を進めても実のある合意には至らないと判断しております」
ヴェルナーが椅子から立ち上がった。随行の書記が同時に立ち、帳簿を閉じた。
「今回は更新交渉の事前協議という位置づけでお伺いいたしました。正式な交渉の日程は追って評議会から書簡でお伝えいたします。条約の更新期限まで、まだ三月ございますので」
ヴェルナーが一礼した。深くも浅くもない、儀礼どおりの角度だった。
扉に向かって歩き出した。靴音が二つ三つ石を打ったところで、足が止まった。
「——最後にひとつ」
振り返らなかった。半身だけで声を届けた。
「以前、貴局との通商書簡を取り次いでくださっていた方がおられたと存じます。お名前は存じ上げませんが——あの方の書簡には、書き手の信がございました」
ヴィクトルの椅子が、小さく鳴った。肘掛けを握る指が白くなっていた。喉が一度、二度動いたが、声にはならなかった。
靴音が廊下に遠ざかっていった。随行の書記の足音が二つ、それに続いた。
来賓室の扉が閉まった。
蝋の匂いが、まだ残っていた。
ヴィクトルは椅子に座ったまま動かなかった。卓の上に視線を落としている。閉じられた条約草案。手のつけられなかった茶器。ガルシアが用意した十二頁の書類束。
「——相手方の態度が、いささか高圧的でしたな」
ガルシアが最初に口を開いた。腕を組み、来賓室の中をゆっくり歩いている。
「商人の連合体というのは格式を知りません。些末な書式の一つで大仰に騒ぎ立て、交渉の場を仕切ったつもりでいる。こちらが格上であることを忘れておるのですぞ」
ヴィクトルは答えなかった。
「関税率の件も、段階制に戻すことは検討いたしますが——あれはあくまで交渉材料のひとつです」
ガルシアが窓のほうに歩いた。
「こちらが引けば、向こうも別の点で譲歩する。外交というのはそういうものでしょう」
ガルシアの靴音が石の床に響いて、壁に跳ね返って消えた。
「書式の件は、まあ——書記官の確認が不十分だったということでしょうな。評議会宛ての書式に直して再送すれば済む話です」
「書記官の確認不足か」
ヴィクトルの声が低かった。
「お前が骨子を書いたんじゃなかったのか」
ガルシアの足が止まった。一拍。靴底が石を擦る音がした。
「……骨子はわたしがまとめましたが、書式の細目は書記官が確認すべきものでして」
「フェルゼンの書式を知らなかったのか」
「——書式というのは国ごとに異なりまして、すべてを暗記している者などそうはおりません。前任の者にしても書類を確認しながら——」
「前任の者はメモなど見ていなかった」
ガルシアの口が閉じた。
沈黙が天井に向かって立ちのぼった。暖炉の炎はもう消えていた。最後の薪が炭になりかけて、赤い光を明滅させている。その光が条約草案の表紙にかすかな影を落としていた。
「……局長殿。あの使節の最後の言葉ですが」
ガルシアの声が一段低くなった。
「気にされることはございません。ああいう外交辞令は聞き流すのが賢明です。以前の担当者がどうだったかなど——」
「フェルゼンへの書簡を出し直せ」
ヴィクトルが遮った。声に力が入っていた。
「評議会宛ての正式な書式でだ。関税率も段階制に戻せ」
「……承知いたしました」
ヴィクトルが立ち上がった。椅子が石の床を擦り、短く高い音を立てた。
「わたしが——書簡の方は、わたしがまとめます」
「お前が書くのか」
声は問いだった。だが答えを待つ声ではなかった。
ヴィクトルの目が一瞬だけガルシアの顔を見た。何かを問う目だったのか、何かを確かめる目だったのか——読み取れるだけの間はなかった。視線がすぐに外れ、ヴィクトルは来賓室の扉に向かって歩き始めた。
「お任せください。今度は評議会の書式に則って——」
扉が閉まった。ヴィクトルの靴音が廊下の角を曲がって消えていった。
来賓室にガルシアだけが残った。
窓から差し込む光の角度が変わっている。交渉が始まる前より陽が高くなって、卓の上の影が短くなっていた。
条約草案を手に取った。頁を開いた。第三頁の関税率の表に目を落とした。一律一割。自分が書いた数字が、書記官の端正な筆跡で並んでいる。
閉じた。
「……一律一割で何の不都合がある」
呟きは、誰にも向けられていなかった。
卓の端に清書用の便箋と未使用のペンが、交渉前に用意されたまま残されている。ガルシアがそれに手を伸ばした。ペンを取り上げた。
銀の皿の上の封蝋が、朝から一度も熱を帯びることなく、赤い棒のまま冷えていた。




