自分のための一行
灰の匂いで目が覚めた。
囲炉裏の薪が夜のうちに燃え尽きている。白い灰の底に最後の熾火がひとつだけ残って、朝の暗がりの中で赤く脈打っていた。木の終わりの匂い。乾いて、冷たい匂いだった。
起き上がった。壁の明かり取りから油紙越しの朝日が白く滲んでいる。
四日目の朝だった。
風呂敷を畳みながら覚書の角に触れた。昨夜開いて閉じた白い頁が、同じ場所にある。
帳場に降りると、宿の主人が囲炉裏に新しい薪をくべていた。乾いた樫が炎を上げて、灰の冷えた匂いを追い出すように、生きた木の脂の匂いが広がった。
「起きたかい。粥があるよ」
「いただきますわ」
木の椀に麦粥が盛られた。青菜が刻んで入っている。湯気が顔にかかった。
「南へ行きなさるのかい」
「ええ。もう少し先まで」
「半日も歩きゃ宿場町に出るよ。ここよりよっぽど大きい。市も出てるし何でも揃う」
粥を口に運んだ。塩気が薄い。
「あの——字を書く道具は手に入りますか。竹ペンや墨のようなものを」
主人が火箸の手を止めた。
「ペンかい。雑貨を扱ってる婆さんの店があるよ。墨ぐらいなら置いてるだろう」
「ありがとうございます」
「書き物の仕事かい。昨日の宿帳、えらくきれいな字だったからねえ」
「……少し前まで、手紙を書く仕事をしておりましたの」
「へえ。この辺じゃそういう人は珍しいよ。エルデの辺境伯様のお役所でも、書記が足りないって話でさ」
匙が止まった。
「——書記が」
「前の書記が年で辞めちまったんだとさ。読み書きできる人が少ないんだよ、この辺は」
「……そうでしたの」
「あんた、南の宿場町で何か用があるのかい」
「いえ。ただ歩いておりますの」
「ただ歩くってかい。はは。都の人ってのは変わってるねえ」
粥の残りを食べ終えた。椀を返して銅貨を置いた。
「お世話になりました」
「気ィつけてね。午後から風が出るかもしれないよ」
宿を出ると、九月の朝の空気が頬に触れた。
エルデの秋は色が深い。街道の両脇に楢と橅の雑木林が続き、葉先が黄と橙に色づき始めていた。朝日がその葉を透かして、まだらの光を土道に落としている。落ち葉が道を覆いかけていて、踏むたびに乾いた音が足の裏から上がってきた。
丘陵を抜けたらしく前方の視界が開けた。根菜の畑と果樹の並木が遠くまで広がっている。
麦畑はない。ここは根菜と果樹の土地だった。通商台帳に一行で書いた品目——根菜類、果実酒——が足元の土と繋がった。
畑の脇を通ると、掘り返された土の匂いがした。黒くて湿った、重い匂い。
鉄胆インクの硬い酸味とも、灰の乾いた匂いとも違う。土の中で育ったものが引き抜かれた跡の、生々しい匂いだった。
道端に秋の野の花が咲いていた。薄紫の竜胆が草の間から顔を出している。書簡の定型句に「秋冷の候」とは書いた。だが竜胆の薄紫も、草の間からそっと覗くこの姿も、定型句の中にはなかった。
歩きながら右手を見た。中指のペンだこ。昨夜の宿帳で久しぶりにペンに触れた。門を出てから初めてだった。十年ぶんの厚みは変わらない。竹ペンの節が当たった場所を、親指でなぞった。
正午前に宿場町が見えた。石造りの家が二十ほど、街道に沿って並んでいる。広場に荷車が数台停まり、市が立っていた。
林檎の匂いが風に乗ってきた。
籠に盛った赤い林檎が陽の中で光っている。隣には干し茸、蜜蝋の蝋燭、麻紐の束。季節の実りと暮らしの道具が石畳の上に並んでいた。
広場の奥に雑貨を扱う店を見つけた。軒先に竹のペン立てと蓋つきの小さな壺が並んでいる。
「すみません。竹ペンと墨壺をひとつずつ」
「はいよ。合わせて銅貨二枚」
竹ペンを手に取った。太めの軸に節がひとつ。切り先が斜めに削られている。素朴な手仕事の跡が残っていた。
墨壺は蓋つきの小さな壺で、掌にちょうど収まる。
「ペンはうちの爺さんが削ったもんだよ。不格好だけど書くには困らない」
「……立派なお仕事ですわ」
「あんた書き物する人かい」
「少し前まで」
「ふうん。この辺じゃ珍しいねえ。大事に使ってやってくれよ」
銅貨を渡した。風呂敷の中に竹ペンと墨壺を入れた。覚書の隣に、書くための道具が加わった。
十年間、使ったペンはすべて外交局の備品だった。銅軸のペンと鉄胆インク。
自分の銅貨で買った書き道具は、これが初めてだった。
墨壺の蓋を少しだけずらした。煤と膠の匂いが蓋の隙間から漏れた。重くて粗い。鉄胆インクの冷えた酸味とは別の、土に近い匂いだった。
蓋を閉じた。
広場の端で林檎をひとつ買った。
「遠くから来なすったのかい」
林檎売りの女が声をかけてきた。
「王都のほうから」
「王都! そりゃまた。歩いて来たの?」
「ええ」
「たいしたもんだ。この辺に用があるのかい」
「まだ決めておりませんの。少し歩いてみようと思いまして」
「おかしなお嬢さんだ。でもこの辺は悪い土地じゃないよ。人は少ないけどさ」
「穏やかな土地ですわね」
「うちの林檎もそうだけどね、この辺のもんは全部穏やかだよ。——あ、もうひとつ持ってきな。おまけだ」
「まあ。ありがとうございます」
「礼は要らないよ。遠くから来てくれたんだから」
林檎を齧った。酸味が先に来て、あとから甘さが追いかけてきた。果実酒の原料として台帳に載っていた林檎が、この酸味と甘味でできていた。もうひとつの林檎を風呂敷に入れた。今日の夕餉の代わりになるかもしれない。
広場の隅の石垣に腰を下ろして、残りを食べた。市の人々が声を上げ、荷を運び、銅貨を数えている。
通商の数字が、この広場では人の声と手で動いていた。帳簿の上の数字とは違う。ここでは数字のひとつひとつに顔がある。
日が西に傾き始めた頃、宿場町の宿を取った。
「一晩お願いできますか」
「泊まれるよ。板間だけど毛布はつく。銀貨一枚」
「お願いしますわ」
「飯は日暮れに出るからね。裏手に水場があるよ」
「助かりますわ」
「お嬢さん旅の人かい。最近ぽつぽつと旅人が増えたんだよ」
「そうなのですか」
「北のほうで何か動きがあるのかねえ。商人が急ぎ足で通り過ぎてったりしてさ」
「……北で」
「ま、うちらにゃ関係ないけどね。この辺は辺境伯様のおかげで平穏なもんだ」
板間は昨夜の宿より少し広かった。窓から夕日が差し込んでいる。窓の外に楢の木が一本立っていて、橙色に染まった葉が夕風に揺れていた。
風呂敷を解いた。覚書三冊と革装の手帳。今日買った竹ペンと墨壺。
覚書を一冊取り上げた。白紙の多い一冊を選んだ。
開いた。
昨夜も同じ頁を開いた。何を書くか分からないまま、そのまま閉じた。
今日は——ある。
墨壺の蓋を開けた。煤と膠の匂いが夕暮れの部屋に広がった。竹ペンの先を墨に浸した。黒い液が穂先を伝って上がってくる。
鉄胆インクとは勝手が違った。銅軸ペンの穂先はしなる。竹は硬い。墨の粘りも重い。
——外交書簡を書くための道具ではない。
ペン先を紙に下ろした。
十年で三千通。すべての書簡に宛名があった。受取人がいて、目的があった。読む者の立場を踏まえ、国ごとの慣習に合わせ、一字ずつ言葉を選んだ。
この頁には宛名がない。
読むのは——わたくしだけだ。
竹の軸が指に硬い。墨が穂先から紙に移った。一画ずつ、ゆっくりと、墨が紙に沈んでいく。
一行。
——麦は穂になると甘く匂い、パンになると温かい。
書いた。
竹ペンを紙から離した。
不格好な字だった。外交局の便箋に並べていた書体とは似ても似つかない。粗い墨が竹ペンの太い線で紙の上に残っている。
字の太さが均一でない。力の入れ方を竹ペンの硬さに合わせきれなかった。最後の一字の右下に、滲みがひとつ落ちていた。
三千通の書簡に、こんな滲みは許されなかった。
だが——この一行には、許しを求める相手がいない。
おととい麦畑の匂いを嗅いだ。昨日パンを買って食べた。書簡の中で数字だった「麦」が穂になり、粉になり、パンになって、この口に入った。
そのことを——自分の言葉で、自分のために書いた。
窓の外で楢の葉が風に鳴った。夕日が頁を赤く染めている。黒い墨と夕焼けの赤が紙の上で重なり、一行の文字がゆっくりと乾いていった。
右手の中指のペンだこが、竹ペンの節の跡で少しだけ赤くなっていた。銅軸ペンとは違う場所が痛む。
——書けた。
ただそれだけの言葉が、胸の奥で温かかった。
階下から声が上がった。
「飯の用意ができたよー」
覚書を閉じた。墨壺の蓋を閉めた。竹ペンを壺の隣に置いた。
昨夜は白紙だった頁に、一行がある。宛名のない、誰のためでもない——わたくしだけの一行。
立ち上がった。明日も南へ歩く。この道の先に何があるかは知らない。
だが明日の夕暮れには、もう一行、書けるかもしれなかった。
階段の途中で足が止まった。窓の外を馬が一頭、北から南へ駆け抜けていく。鞍に小さな紋が見えた。
飛脚馬だ。
階下で宿の主人がつぶやいた。「また急ぎの馬だよ。今日で三頭目だ」
「三頭も?」
「ああ。何を急いでるんだかねえ」
セラフィーナは窓から目を離した。飛脚馬の蹄の音が街道の先で消えていく。書簡を運ぶ馬——あの鞍の下にある言葉が、誰の手で書かれたものか。
胸の奥で何かが掠めた。だが振り返らなかった。
覚書の上で、竹ペンが墨壺に寄りかかるように斜めに倒れていた。




