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第十九話 絵図にない光

セリアは、倒れたヴァルガの傍らに膝をついた。

 脇腹の傷は、深い。布を当てても、当てた端から赤が滲んで広がっていく。

 「……うそ。こんな、ひどい」

 彼女の手が震えた。薬草を煎じる暇も、傷を縫う余裕もない。

 手当てが追いつくより、命が零れる方が早い。

 以前ニコを救ったときは、薬草と、何人もの手と、わずかな時間があった。

 今は、何もない。暴れる獣の足元で、時間だけが容赦なく削られていく。

 セリアの顔から、血の気が引いた。

 また、目の前で消えていく。彼女が「才能なし」と言われ、何もできずに見送ってきた、あの日々と同じに——


---


 「いやだ」

 セリアが、ヴァルガの傷に両手を押し当てた。

 「いやだ。死なせない。今度こそ、わたしが——!」

 その時だった。

 彼女の胸の奥で、ずっと豆粒のままだった何かが、堰を切った。

 手のひらが、熱を持つ。

 いつか瞬きの間に消えた、あの頼りない光。それが今、消えない。

 淡い金色の光が両手から溢れ、ヴァルガの傷をゆっくりと包んでいく。

 俺の視界の隅で、画面が灯った。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

セリア・シルヴァ Lv1 → Lv3

経験値取得:

・負傷者の治療を重ねた(治癒系・大)

・瀕死の仲間に手を尽くした(救命・特大)

───────────────

ステータス上昇(治癒系):

MP 29 → 33

DEX 16 → 18

───────────────

★Lv3到達:初めてのスキルが解放されました

「治癒の素養」(傷の治りを早め、治癒魔法の素地となる)

※対象者には何も見えていません

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 止まらなかったヴァルガの血が——止まった。

 裂けた傷口が、見えない手で寄せられるように、ゆっくりと塞がっていく。完全には治りきらない。だが、命が零れる穴だけは、確かに閉じた。

 浅かった呼吸が、少しずつ深くなる。

 「……っ、旦那を……助けねえと……仕事が、まだ……」

 うわ言のように呟いて、ヴァルガの強張りが、ふっと緩んだ。気を失っただけだ。生きている。

 セリアは、自分の両手を、信じられないものを見るように見つめた。

 その手から、まだ淡い光がこぼれている。

 「わたし……できた……?」

 声が、震えていた。


---


 俺は、その光を見ていた。

 彼女が、自分の手で、自分の限界をこじ開けた。その光だった。

 そして、その光は、彼女一人のものでは終わらなかった。

 逃げ惑っていた村人の足が、止まる。

 暴れる獣に怯えていた目が、セリアの手の光に吸い寄せられていく。

 「セリアが……あの、才能なしのセリアが……」

 誰かが呟いた。嘲りではない。畏れと、希望の混じった声だった。

 一人が、落とした農具を拾い直す。また一人。崩れかけた村の背骨が、もう一度まっすぐになっていく。

 強さは、伝染する。

 一人の奇跡が、逃げかけた十人の足を、地面に縫い止めた。


---


 そして、エルナの目つきが変わった。

 ヴァルガが助かった。それだけで、剣を握る手の震えが消える。

 「リョウ! あいつ、どうやって倒すの! 喉なんか、開かないよ!」

 その叫びが、俺を引き戻した。

 考えろ。

 森の主は、なおも荒れ狂っている。だが、よく見れば、さっきと何かが違う。

 動きが、鈍い。脇腹の古傷から、黒い血が絶え間なく流れ落ちている。五十年塞がらなかった傷だ。今さら、塞がるはずがない。

 あいつは痛みに任せて暴れながら、その実、少しずつ力を失っていく。

 そして、血の匂いと動くものへ、めちゃくちゃに突っ込んでいく。盲滅法もうめっぽうに。

 ——使える。

 崩れた村の一角に、ぽっかりと口を開けた穴があった。掘りかけのまま残された、新しい井戸。

 あの深さ。あの位置。

 段取りが、もう一度、組み上がっていく。今度は、崩れない形で。


---


 「エルナさん! 最後にもう一度だけ、囮を頼みます!」

 「囮? あたしが?」

 「あいつを、あの井戸の穴へ——まっすぐ突っ込ませてください。あなたを追わせて、穴の手前で、横へ」

 エルナの目が、見開かれた。一瞬で、俺の狙いを読み取ったらしい。

 「……足を、突っ込ませるのね」

 「そうです。盲のまま全力で来れば、止まれない。前足が穴に落ちれば——」

 頭が、跳ね上がる。あの長い首が、空を仰ぐ。

 咆えるのを待つんじゃない。こっちから、強引に喉をこじ開ける。


---


 エルナが、再び前へ出た。

 血と汗に汚れた体で、たった一人、手負いの獣の前へ。

 「こっち! こっちだよ、化け物!」

 森の主の濁った目が、動くエルナを捉える。狙いなんて、もうない。ただ目の前の獲物へ、全身でぶつかっていく。

 地面が揺れる。

 エルナが走る。井戸へ向かって、まっすぐ。獣がその背を追う。

 穴の、すぐ手前。

 エルナの体が、横へ跳んだ。見切り。紙一重で、巨体が脇を抜ける。

 止まれない森の主の前足が、掘りかけの井戸へ——ずぶり、と沈んだ。

 巨体が、つんのめる。

 支えを失った頭が、勢いのまま跳ね上がった。

 長い首が、天を仰ぐ。

 岩鎧の喉の継ぎ目が——ぱっくりと、開いた。


---


 「今です——!」

 叫んだのは俺だ。だが、その声より早く、エルナはもう跳んでいた。

 崩れた荷車を踏み台に、宙へ。

 開いた喉の、その柔らかな一点へ。

 彼女の剣が、根元まで吸い込まれた。

 今度は、滑らない。咆えさせもしない。

 森の主の巨体が、びくん、と大きく跳ねて——止まった。

 ずるり、と剣が抜ける。黒い血が、滝のように流れ落ちる。

 山のような体が、ゆっくりと傾いだ。

 地響き。

 森の主が、倒れた。

 五十年、誰にも倒せなかった化け物が、村の真ん中で、動かなくなって横たわっていた。


---


 しん、と、あたりが凪いだ。

 誰も、声を出せない。倒れた巨体の、その大きさを、ただ見上げている。

 最初に声を上げたのは、避難先から顔を出した子供だった。

 それが、堰を切った。

 歓声。村中の、ありったけの声。

 エルナが、剣を提げたまま、その場にへたり込む。ハロルドが駆け寄って、その肩を抱いた。

 セリアの手の光は、もう消えていた。けれど、彼女の膝の上で、ヴァルガの胸は、確かに上下している。


---


 俺は、その全部を、少し離れた場所から見ていた。

 あの土壇場をこじ開けたのは、倒れた仲間を死なせまいとした、セリアの手だった。怯えを振り切ってもう一度前に出た、エルナの足。逃げずに踏みとどまった、村のみんな。

 俺一人なら、とっくに詰んでいた。

 仕組みは組める。場も整えられる。

 でも、人が最後の一歩を踏み出す——その理由までは、俺には作れない。

 それを持っていたのは、いつだって、俺が賭けたこの人たちの方だった。

 夜明けの光が、倒れた獣と、立ち尽くす村を、ゆっくりと照らし始める。

 勝ったのだ。

 誰一人、欠けることなく。

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